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第275節『最後の問いと誓い』

第275節『最後の問いと誓い』

 源次の放った言葉の響きが、まだ天幕の中に残響していた。

 竜神の顎――そのあまりに壮大で、そしてあまりに非情な作戦の全貌を前に、居並ぶ将たちは言葉を失い、ただ息を呑む。成功すれば完全勝利。だが、一つでも歯車が狂えば全軍壊滅。その究極の二択が、重い沈黙となって彼らの肩にのしかかっていた。


 その沈黙を破ったのは、中野直之だった。

 彼は地図から顔を上げると、軍師ではなく、その隣に座す領主・直虎へと、静かに、しかし真っ直ぐな視線を向けた。

「直虎様。軍師殿の策、その恐るべきほどの精密さ、この中野直之、確かに拝聴いたしました」

 彼の声には、ただ、兵数千の命を預かる侍大将としての、揺るぎない責任感だけが滲んでいた。

「されど」と、彼は今度こそ源次に向き直った。「源次殿。一つ、大将として問わせていただきたい。このあまりに危険な策を、我ら将は理解した。だが、これから死地へと向かう兵たちに、どう伝え、どう納得させるおつもりか。彼らは駒ではない。一人ひとりに家族があり、守るべき暮らしがある。その者たちに、命を賭ける覚悟をさせるだけの言葉を、貴殿は持っておられるのか」


(……来たか。中野さん)

 源次は、その問いを静かに受け止めた。これは、彼への不信ではない。これから自分が率いる兵たちの心を、誰よりも案じているからこその、魂の問いだ。そして、その問いに答えることこそが、この評定の最後の仕上げとなる。


「お答えいたします」

 源次は立ち上がると、天幕に集う全ての将――そして、その先にいる全ての兵士たちに語りかけるかのように、その声に熱を込めた。


「皆様に問いたい。我らがなぜ、今、ここで戦うのかと。それは、我らが守るべきものがあるからにございます! 井伊谷の豊かな実り、市で笑い合う人々の顔、そして何より、我らが帰りを待つ家族の笑顔! それらを、理不尽な暴力から守り抜くため、我らはここにいる!」

 彼の声が、天幕を震わせる。

「この戦は、賭けではございません! 情報を制し、地の利を活かし、天の時を掴んだ、勝つべくして勝つ戦です! 恐れるな! 貴殿らの背後には、この私が描いた完璧な勝利の絵図がある! そして、貴殿らの隣には、生死を共にする仲間がいる!」


 彼は、新太を、権兵衛を、そして中野を、力強い眼差しで見据えた。

「我らはもはや寄せ集めの軍ではない! 陸を知る牙、海を知る鱗、そしてそれらを束ねる知恵! 我らは、この浜名湖に現れた、新しい竜神そのものなのだ! その竜の顎にかかれば、海賊ごとき、赤子の手をひねるも同然! この戦、我らが必ず勝つ!」


 その魂を揺さぶる演説に、天幕の中の誰もが、肌に粟を生じるほどの興奮を覚えていた。

 中野直之は、その光景を見つめ、静かに、しかし満足げに頷いた。

(……見事だ、源次殿。これほどの言葉があれば、兵は喜んで死地にも赴くだろう)

 彼は、自らが投げかけた問いへの、完璧な答えを受け取ったのだ。


 全ての言葉が出尽くした。

 天幕の中は、再び静寂に包まれた。だが、それはもはや不安の沈黙ではない。決戦を前にした、鋼のような覚悟に満ちた静寂だった。

 その中心で、直虎がゆっくりと立ち上がった。

 彼女は、家臣一人ひとりの顔を見渡すと、静かに、しかし凛とした声で、最後の言葉を告げた。

「わらわは、この評定の場にて、策の是非を問うつもりはない。それは、すでに軍師を信じると決めた、わらわの役目ではないからじゃ」

 彼女は、源次へと真っ直ぐな視線を向けた。

「ただ、一言だけ告げる。この戦の全ての責は、この井伊直虎が負う。皆は、ただ軍師を信じ、己の役目を果たせ。そして――必ずや、生きてこの地へ戻ってまいれ」


 それは、作戦の裁可ではなかった。

 領主として、この危険な作戦の全ての責任を自らが引き受け、将兵たちの命を守り抜くという、絶対的な覚悟の表明だった。

 その言葉を聞き、源次は、天幕にいる全ての将兵は、もはや何の迷いもなく、深々と、そして力強く、その場に平伏した。

「「「ははっ!!」」」

 井伊家の心は、完全に一つになった。

 評定は、終わった。

 あとは、竜神がその顎を開く、運命の夜を待つだけである。

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