第274節『竜神の顎』
第274節『竜神の顎』
「――我らが為すは、完全なる挟撃作戦にございます」
源次の静かな宣言が、天幕の中の空気を支配していた。
彼の言葉を受け、新太は槍の柄を握りしめ、権兵衛は腕を組み、そして中野は地図を睨みつける。彼らは、この作戦の骨子をすでに知っていた。だが、こうして全ての情報が出揃い、最終的な形となって提示された今、その作戦が持つ恐るべきほどの精密さと、そして紙一重の危険性を、改めて肌で感じていた。彼らの顔に浮かぶのは、驚きではない。自らがこれから演じる役割の、その計り知れない重圧だった。
だが、この策を初めて耳にする他の者たち――特に、上座に座す直虎と、その脇を固める小野政次らにとっては、衝撃以外の何物でもなかった。
(陸と海から……同時に……?)
直虎は息を呑んだ。それは、二つの異なる場所で、二つの異なる部隊が、まるで一つの身体であるかのように、寸分の狂いもなく連携しなければ、決して成立しない作戦。成功すれば完全勝利。だが、歯車が一つでも狂えば全軍壊滅。そのあまりに両極端な結末が、彼女の脳裏に鮮烈に映し出された。
源次は、その場の全ての視線が自分に注がれているのを感じながら、まるで盤上の神が駒を動かすかのように、扇の先でゆっくりと地図の上をなぞり始めた。
「まず、陸の部隊。我らが『上顎』となります。夜陰に紛れて敵の背後へと回り込み、勘助殿が発見した『竜神の道』より砦へ潜入。敵の頭上から振り下ろされ、その意識を完全に引きつける、鋭き牙です」
その言葉と共に、彼は静かに新太へと視線を送った。
「その最も危険な刃の役目は、船手頭・新太殿に一任いたします」
新太は、その言葉を待っていたかのように、無言で、しかし力強く頷いた。その目には、友からの信頼に応えんとする、燃えるような闘志が宿っていた。
次に、源次の扇は地図の南、浜名湖から三河湾へと広がる広大な海域へと移った。
「そして、陸の部隊が陽動を起こし、敵が完全に背後へと気を取られた、ただその一瞬。その隙を突き、我ら水軍本隊が、この海から『下顎』として突き上げるのです」
扇の先が、港へと向かう雄大な弧を描く。
「大潮の満ち潮、その最も流れが速くなる奔流に乗り、敵が守りを固める正面の港を、我らは一気に強襲いたします。その操船は、船頭頭・権兵衛殿に。そして、上陸後の陸戦の指揮は、侍大将・中野殿にお願いする」
権兵衛と中野もまた、静かに、しかし覚悟を決めた目で頷き返した。
陸の陽動と、海からの強襲。
その完璧な挟撃の絵図を前に、小野政次をはじめとする家臣たちは、もはや言葉を発することもできなかった。ただ、その作戦の恐ろしさと美しさに、戦慄するしかなかった。
全ての役割分担が示され、あとは領主の裁可を待つだけとなった、その時。
源次は、集まった全員の顔を見渡し、静かに、しかし力強く、この作戦の名を告げた。
それは、この評定の、そしてこの戦いのクライマックスを告げる響きを持っていた。
「――作戦名は、『竜神の顎』と申します」
竜神の顎。
その不吉で、しかし抗いがたいほどの力強さを感じさせる響きが、天幕の中に満ち渡った。
陸の「上顎」が敵の頭蓋を砕き、海の「下顎」がその腹を食い破る。竜がその顎で獲物を砕くがごとく、敵を前後から挟み撃ちにし、逃げ場を完全に奪い去る。
将たちは、その名に込められた真意を理解し、ごくりと喉を鳴らした。
直虎は、その作戦名を聞いた瞬間、全ての迷いが消え去るのを感じた。
(……竜神。そなたは、もはや人ではない。この井伊谷に勝利を呼び込む、竜そのものとなろうとしておるのか、源次)
彼女の瞳には、もはや不安の色はない。自らが信じた軍師が描く、壮大な未来への、揺るぎない確信の光だけが宿っていた。
彼女は、領主として、この恐ろしくも美しい作戦に、井伊家の全ての運命を賭ける覚悟を決めたのだった。