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第273節『敵を知る、己を知る』

第273節『敵を知る、己を知る』

 直虎の「策の全貌を」という静かな、しかし有無を言わせぬ声が、天幕の張り詰めた空気をさらに引き締めた。

 源次は、その言葉に応えるべく、深々と一礼すると、地図の前に座したまま口を開いた。彼の声は、もはや評定の場で意見を述べる家臣のものではなく、一つの軍の運命を預かる軍師としての、揺るぎない響きを帯びていた。


「はっ。それでは言上いたします。皆様、戦とはまず、敵を知ることから始まります。この数週間、我らが放った『目』と『耳』の命がけの働きにより、我らは村櫛党の正体を、完全に丸裸にいたしました」


 彼はまず、地図の上に置かれた一枚の紙片――弥八がもたらした内部情報――を指し示した。

「第一に、敵の頭領。彼は『海の鬼』と恐れられておりますが、その実はさにあらず。過去の裏切りへの恐怖から部下を信じられず、砦に引きこもる『猜疑心の獣』にございます。恐怖で支配された組織は、その恐怖の源が揺らいだ時、砂の城のごとく崩れます」


 次に、彼は血の染みが残る勘助の海図へと扇の先を滑らせた。

「第二に、奴らの砦。正面の港は鉄壁。されど、その背後には大潮の干潮時にのみ姿を現す秘密の入り江――『竜神の道』がございます。彼らは正面の守りを過信するあまり、この背後からの奇襲を全く想定しておりません。難攻不落に見えるは、ただの虚仮威し。奴らの城は、我らにその背中を完全に晒しております」


 最後に、彼は酒場で集められた情報の要約を指す。

「第三に、奴らの兵。彼らは忠誠心ではなく、略奪によって蓄えられた食料と酒、そして財宝のために戦う烏合の衆。つまり、その富の源泉である食料庫が脅かされれば、彼らの戦意はいとも容易く崩壊いたします」


 一つ、また一つと暴かれていく敵の弱点。そのあまりに的確な分析に、天幕に集う将たちは息を呑んだ。これまで漠然と「海の鬼」と恐れていた敵の姿が、今や明確な弱点を持つ、攻略可能な標的へと変わっていく。

「……そこまで、調べ上げていたのか」

 中野直之が、畏怖の念を込めて呟いた。


「されど、敵を知るだけでは勝てませぬ」と源次は続けた。「次に、我ら自身の力を知らねばなりませぬ。我らは出来たばかりの寄せ集め。ですが、奴らが決して持ち得ぬ、三つの強みがございます」


 彼の扇の先が、今度は天幕の中に座す将たちを一人ひとり指し示していく。

「まず、権兵衛殿が率いる、我らが『舵』。彼らは、敵が気づかぬ『竜神の道』を見出し、我らを安全に敵の懐へと導くことができます。戦う場所と時を、我らが自ら選ぶことができるのです」

 権兵衛は、その言葉に静かに、しかし力強く頷いた。


「次に、新太殿が率いる、我らが『衝角』。彼らは夜陰に乗じて道なき道を進む山岳戦の達人。敵が気づかぬうちにその心臓部に潜入し、内側から混乱を引き起こすことができます」

 新太の目が、獲物を前にした獣のように鋭く光った。


「そして、中野殿が鍛え上げた井伊の兵たち。彼らは、同じ故郷を守るという一つの想いで結ばれた、鉄壁の『盾』。個々の力では劣っても、組織として動くことで、烏合の衆の攻撃を防ぎきることができます」


 敵の三つの弱点と、味方の三つの強み。

 その対比が、あまりにも鮮やかに示された。将たちの顔から、初陣への不安の色が消えていく。代わりに宿ったのは、「これならば勝てる」という、論理に裏打ちされた絶対的な確信だった。

 源次は、その空気の変化を確かめると、静かに息を吸い込んだ。


「敵の弱点と、我らの強み。この二つを組み合わせた時、勝利への唯一の道筋が見えてまいります」

 彼は、初めて地図全体を扇で大きく示し、その壮大な構想の、最初の輪郭を語り始めた。

「我らが為すは、単純な奇襲ではございません。潜入によって敵の内部を乱し、その隙を本隊が突く。陸と海、内と外から、敵を同時に喰らう、完全なる挟撃作戦にございます」


 その言葉に、将たちはごくりと喉を鳴らした。

 まだ作戦名は明かされていない。だが、その言葉の響きだけで、これから始まる戦が、常軌を逸した、そしてあまりに美しいものであることを、誰もが予感していた。

 天幕の中の空気は、もはやただの緊張ではなかった。

 必勝を確信した者たちだけが放つ、灼けつくような熱気に満ちていた。

 直虎は、その全てを、領主として、そしてこの軍師を信じた者として、静かに、しかし誇らしげに見つめていた。

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