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第271節『家康の見る器』

第271節『家康の見る器』

 井伊水軍の拠点で、血の流れない、しかし命がけの戦いが繰り広げられている頃、井伊谷城の奥座敷もまた、別の種類の静かな戦場と化していた。

 直虎は、卓上に広げられた領内の地図と、山と積まれた帳簿を前に、連日連夜、まつりごとに追われていた。源次が描いた水軍創設という壮大な計画は、後方支援という名の、地道で、しかし膨大な作業を必要としたからだ。

 その静寂を破ったのは、廊下を駆ける慌ただしい足音だった。


「申し上げます! 浜松城より、徳川様のお使いが参っております!」

 その報せに、傍らに控えていた小野政次が顔を上げた。「徳川様から……? 一体、何事にございますか」


 広間に通された徳川の使者は、恭しく一通の書状を差し出した。それは、先日直虎が送った「村櫛党討伐を、井伊・徳川両家の海の安寧のための公的な戦いとする」という大義名分を求める書状への、家康からの返書だった。

 書状には、こう記されていた。

 「――井伊家の決断、見事である。されど、此度の儀は井伊家の内の問題。徳川が公に兵を出すことはできぬ。よしなに計らえ」

 表向きは、井伊家の独断行動を認めず、突き放すかのような冷たい内容だった。評定の間に集っていた家臣たちの間に、失望と怒りの声が上がる。「なんと無情な」「我らを見捨てるおつもりか」。


 だが、使者はそのざわめきを意に介さず、懐からもう一つ、桐の箱を取り出すと、それを密かに直虎の側近へと手渡した。

「――これは、殿からの、井伊水軍創設への『祝い金』にござる。公にはできぬゆえ、内々にお納めくだされ、とのこと」

 箱の中には、ずしりと重い金子三十貫が納められていた。


 その二つの、あまりに矛盾した対応に、家臣たちは完全に混乱した。だが、直虎だけは、その意味を瞬時に、そして完璧に読み解いていた。

(……家康殿)

 彼女の口元に、かすかな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。

(表向きは我らを突き放し、徳川としての責任を回避することで、譜代の家臣たちを納得させる。じゃが、その水面下では、源次の描く未来に、あの男個人として『賭けて』きたか。……あの男、ただの武人ではない。人の器を見抜く、恐るべき目を持っておるわ)

 家康は、為政者としての計算よりも、源次という男の規格外の才能がどのような結果を生むのか、それを間近で見たいという、一個の武人としての純粋な好奇心と期待で動いたのだ。その深謀遠慮のない、あまりに真っ直ぐな賭けに、直虎は戦慄を覚えると同時に、ある種の信頼にも似た感情を抱いていた。


(源次……そなたは、もはやわらわだけの懐刀ではない。あの徳川家康という、大きなの器を持つ男の心をも、動かし始めておるのだな)

 その事実に、彼女は領主としての誇らしさと、そして、自らの手を離れていくかもしれない逸材への、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

 だが、すぐにその感傷を振り払う。

「小野!」

「はっ」

「この金子で、すぐに焙烙ほうろくに詰める火薬と、船を強化するための鉄材を買い付けよ! 源次が戦うための、最高の武器を揃えるのじゃ!」

 その声には、もはや迷いはなかった。

 徳川家康という巨大な存在が、自分たちの後ろ盾として、そして同時に油断ならぬ競争相手として存在している。その現実を前に、彼女は領主として、さらに強く、さらにしたたかに生き抜く覚悟を決めたのだ。

 源次がいないこの井伊谷で、彼女もまた、自らの戦場で戦っていた。そして、この家康からの「種銭」は、来るべき決戦の後、井伊水軍がさらに大きく飛躍するための、重要な礎となるのだった。

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