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第270節『静かな開戦』

第270節『静かな開戦』

 その夜、浜名湖は墨を流したような闇に沈んでいた。

 月はなく、空を覆った厚い雲が、わずかな星明りさえも地上から奪い去っている。風は凪ぎ、湖面は鏡のように静まり返っていたが、その水面下には計り知れないほどの冷たい力が渦巻いているのを、源次は肌で感じていた。

 井伊水軍の拠点もまた、その闇に呼応するかのように静寂に包まれていた。昼間の喧騒――兵たちの怒声や槌音は嘘のように消え去り、今はただ、遠くで夜番の兵が咳払いをする音と、時折、篝火の薪がぱちりと爆ぜる音が聞こえるだけだった。


 源次は、その闇を見つめていた。

 軍議の天幕に吊るされた油皿の、頼りない灯りが彼の横顔を照らし出す。卓上に広げられた巨大な地図には、この数日間の情報戦で得られた全てが、赤と黒の墨でびっしりと書き込まれていた。それはもはや、ただの地図ではない。敵の呼吸、弱点、そして未来の動きまでもが記された、勝利への設計図だった。


 天幕の外から、静かな足音が二つ近づいてくる。

 一人は、大地を踏みしめるような、重く力強い足取り。もう一人は、潮風に慣れた、しなやかで無駄のない足取り。

 幕が静かに開かれ、新太と権兵衛が姿を現した。

「……どうだ」

 権兵衛の声は、いつものような豪放さはなく、決戦を前にした男の、静かな覚悟に満ていた。

「……源次」

 新太の声もまた、低く、短かった。だが、その一言には、友への全幅の信頼が込められていた。


 源次は地図から顔を上げず、ただ指でその一点を示した。

「……時は、来た」

 その声は囁きに近かったが、天幕の中の三人の男には、開戦を告げる法螺貝の音よりも大きく響いた。

 地図の上に置かれた、最後の情報。それは、つい先ほど、命がけで砦から脱出してきた連絡員がもたらした、弥八からの最終報告だった。

 ――『内ナル手引キノ準備、整ヘリ。決断ヲ待ツ』


 その一文が、全てのパズルを完成させた。外からの「潮」を読む力と、内からの「裏切り」という楔。二つの力が合わさる時、難攻不落と思われた村櫛砦は、砂上の楼閣と化す。

 源次は立ち上がった。

「新太、権兵衛殿。最終確認を行う。抜かりはないな」


 権兵衛が、まず口を開いた。

「ああ。船の準備は万端だ。あんたの言う通り、櫂が水を叩く音を消すために布も巻かせた。兵たちにも、夜間の無灯火航行の訓練を徹底的に叩き込んである。あとは、あんたが読む『潮』を信じるだけだ」

 その目には、もはや疑念の色はない。ただ、自らが認めた「潮神」の采配に、己の全てを委ねるという、海の男の潔い覚悟があった。


 次に、新太が槍の柄を握りしめながら応えた。

「俺の部隊も、いつでも行ける。弥助をはじめ、元武田の連中は夜襲と潜入の専門家だ。山の兵たちも、この数日の訓練で、暗闇を恐れる雛鳥ではなくなった。……誰一人、死なせはしない。必ず、陽動を成功させてみせる」

 彼の声には、自らが率いる部隊への絶対的な自信と、友の策を必ず成功させるという、揺るぎない決意がみなぎっていた。


「……頼む」

 源次は、二人の顔を順に見渡し、深く頷いた。

 出自も気質も異なる三人が、今、完全に一つとなった。

 彼は天幕の外へと歩みを進めた。外では、黒装束に身を包んだ十数人の男たちが、息を殺してその時を待っていた。彼らは、源次がこの作戦のために特別に編成した、直属の工作部隊だった。猟師出身で夜目に利く者、手先が器用で錠前破りが得意な者、そして何より、この作戦の重要性を理解し、命を懸ける覚悟を決めた者たち。

 彼らの任務は、決戦の前に砦へ先行潜入し、新太率いる陽動部隊が秘密の入り江から砦内部へ侵入するための道筋を確保すること。そして、決戦の火蓋となる「火付け」の準備を整える、最も危険な役割を担っていた。


 源次は、彼らの前に立ち、多くは語らなかった。

「お前たちの働きが、この戦の始まりを告げる。失敗は許されない。だが、手柄を焦るな。俺が立てた筋書き通りに動けば、必ず道は開ける。……行け」

 男たちは、無言で深々と頭を下げると、一人、また一人と闇の中へと溶けるように消えていった。


 やがて、浜辺から一隻の小さな手漕ぎ舟が、音もなく岸を離れた。

 水を掻く音は、夜の闇に吸い込まれてほとんど聞こえない。ただ、黒い影が、静かな湖面を滑っていくのが、かろうじて見て取れるだけだった。

 その舟の上には、先ほどの工作部隊の者たちが乗っている。彼らはこれから、敵地の心臓部へと、最初の刃を突き立てに行くのだ。


 浜辺には、源次、新太、権兵衛の三人が、まるで仁王像のように立ち尽くしていた。

 三人は、その小さな舟の影が、湖の闇に完全に溶け込んで見えなくなるまで、誰一人として動かず、一言も発さなかった。

 風が、源次の髪を静かに揺らす。

 彼の胸中には、軍師としての冷徹な計算と、仲間を死地へ送る師としての重い責任が、複雑に渦巻いていた。


(刃は交わらない。鬨の声も上がらない)

 彼は、心の中で静かに呟いた。

(だが、我ら井伊水軍の最初の戦は、この静かな夜の闇の中で、確かに始まったのだ。勝敗は、すでに決している。あとは、どう動かすかだけだ)


 やがて、小舟の影は完全に見えなくなった。

 湖上には、ただ静寂と闇だけが広がっている。

 しかし、その静寂は、これから始まる嵐の激しさを予感させ、見る者の肌を粟立たせるほどの、凄まじい緊張感を孕んでいた。

 井伊水軍の、歴史を賭けた初陣。その本当の火蓋は、今、この瞬間に切って落とされたのである。

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