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第27節『交錯する刃』

第27節『交錯する刃』

 泥の川を渡りきったはずなのに、地獄は終わらなかった。

 「はぁ……はぁ……っ!」

 源次は全身の鎧が水を吸い、ずしりと身体にのしかかる重さに耐えながら走った。

 濡れた草が足に絡みつくたびに、膝が折れそうになる。

 背後では、赤備えの鬨の声がますます近づいていた。

 「もう、もう無理だ……!」

 生き残った若い兵のひとりが、泥に足を取られて転び、そのまま泣き叫んだ。

 「立て! 立つんだ馬鹿者!」

 重吉が怒鳴り、腕を引っ張り上げる。

 その顔には疲労が色濃く刻まれていたが、なおも歯を食いしばり兵を鼓舞していた。

 源次は地形を睨んだ。

 わずかに低い丘陵の陰へ逃げ込めば、視線が切れ、多少は追撃の手が鈍る。

 「右だ! あの丘の影へ回れ!」

 必死に声を張り上げるが、兵たちの脚はもう鉛のようだった。

 「はぁ、はぁ……」

 息は焼けつくように苦しい。

 一人、また一人と遅れはじめる。

 (駄目だ……このままじゃ追いつかれる……!)

 恐怖が喉を締めつける。

 だがその恐怖をさらに上回る、異様な気配が迫ってきた。

 地響きのような蹄の音。

 「……馬か?」

 振り返った源次の目に飛び込んできたのは、常軌を逸した速さで迫る一騎だった。

 全身を赤く染めた鎧。

 炎を思わせる赤漆の光沢。

 背後に続くはずの武田兵を遥かに置き去りにし、ただ一直線に突き進んでくる。

 まるで彗星が地上に降り立ったかのように。


 「な、なんだあれは……!」

 源次の口から思わず声が漏れる。

 (馬に乗っているわけじゃない……! あれは、人間の脚で……!?)

 信じられない速度だった。

 周囲の兵を抜き去り、刃だけを求めて突き進んでくる。

 そしてその眼差しは、はっきりと源次ただひとりを捉えていた。


 「皆、先に行け!」

 源次は立ち止まり、槍を地面に突き立てた。

 全員が足を止めかける。

 「ここは俺が食い止める!」

 「馬鹿なこと言うな!」

 重吉が振り返り、血走った目で叫んだ。

 「お前まで死んだら、この隊はどうする!?」

 「だからだ! あんたまで死んだら、本当に誰も生き残れない!」

 源次の声は、己を奮い立たせるために怒号となった。

 重吉の目が揺れる。だが一瞬の逡巡の後、彼は歯を食いしばり仲間を押し出した。

 「……必ず生き延びろよ、源次!」

 源次は頷き、槍を構え直す。

 赤い彗星のような武者は、もう目と鼻の先に迫っていた。


 「来い……!」

 鼓動が爆ぜるように鳴る。

 冷や汗が頬を伝う。

 指先の感覚が消えていく。

 一閃。

 鋭い刃の軌跡が、空気を裂き、悲鳴を上げた。

 耳をつんざく金属音。

 衝撃で腕がちぎれそうになり、槍が弾き飛ばされかける。

 「ぐっ……!」

 一撃目。

 ただの一撃で、源次の身体は大地に叩き伏せられる寸前だった。

 (速い……重い……! 人間の動きじゃない!)

 必死に足を踏ん張り、槍を引き戻す。

 だが、若武者はもう次の斬撃を繰り出していた。

 二撃目。三撃目。

 火花が散り、金属音が耳を貫く。

 一撃ごとに、腕の骨が軋み、肺が潰れそうになる。

 防戦一方。

 それでも、紙一重で捌き切る。


 「ほう……」

 兜の奥から、低く響く声が漏れた。

 嘲りか、感嘆か。

 その響きは不気味な余裕に満ちていた。

 (……こいつ……! 本気じゃないのか!?)

 怒涛の連撃が途切れた刹那。

 若武者が渾身の突きを繰り出した。

 「――っ!」

 槍の穂先が月光を反射し、稲妻のように迫る。

 源次は反射で身を捻り、髪を掠める軌跡をかわした。

 同時に、槍の石突を振り上げ、若武者の兜へと叩きつける。

 甲高い破砕音。

 兜の面頬が割れ、宙を舞った。

 月明かりに晒されたその顔。

 源次の時間が止まった。

 獲物を射抜く鷲のような鋭い目。日に焼けた肌。一文字に結ばれた唇。

 そして――右の眉尻に浮かぶ、三日月形の古い傷跡。


 その傷を見た瞬間、源次の脳裏に、埃っぽい研究室の記憶が稲妻のように駆け巡った。

 彼が歴史研究家として追い求めてきた、異端のテーマ。

 学界の主流からは「眉唾物の伝説」と一蹴されながらも、彼がその実在を信じてやまなかった幻の武将。

 ごく一部の寺社にのみ残された古文書の一節が、目の前の現実と重なる。

 ――その眉には三日月の傷。その武は人の域にあらず。

 ――武田の影、名を新太と号す。


 (……新太……!?)

 古文書の記述と寸分違わぬ容貌。

 人間離れした武勇。

 そして、武田の赤備えを率いて現れたという状況証拠。

 全てのピースが組み合わさり、ありえない答えを導き出す。

 目の前の男は、自分が論文の中でその実在を証明しようとしていた幻の存在、「新太」その人だった。


 「なぜ……なぜ、あんたがここに……!? まさか、俺の研究は……あの古文書は、本当だったのか!?」

 頭が真っ白になる。

 呼吸が止まる。

 研究者としての生涯をかけた仮説が、今まさに牙を剥いて自分に襲い掛かってきている。その究極の矛盾が、思考を完全に停止させた。

 その致命的な硬直を、赤備えの若武者――新太が見逃すはずはなかった。

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