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第268節『神の視点』

第268節『神の視点』

 天幕の中は、息が詰まるほど静かだった。

 重吉が退出した後、源次は一人、卓上に広げられた巨大な地図の前に座していた。彼の目は、もはや目の前の紙を見てはいなかった。その先にある、未来の戦場を、神の視点から俯瞰していた。


(潮……そうだ、全ては潮の流れだ)


 直虎の言葉によって呼び覚まされた彼の本質――「潮を読む目」が、全ての情報を再構築していく。

 彼は筆を取り、まず、血に汚れた勘助の海図を、卓上の巨大な地図へと正確に書き写し始めた。

 複雑に入り組んだ岩礁の位置。時間と共に変化する潮の流れの向きと速さ。そして、砦の裏手、絶壁の下にわずかな時間だけ姿を現すという、秘密の入り江の存在。

 その「竜神の道」が地図上に現れた瞬間、これまでただの難攻不落の要塞にしか見えなかった村櫛砦の姿が、一変した。

(正面は鉄壁。だが、背後はがら空きだ。奴らは、この道の存在を知らない。海の民であればあるほど、この大潮の夜の危険な流れを恐れ、近づこうとはしない。まさに灯台下暗し!)


 次に、彼は弥八がもたらした内部情報を重ね合わせる。

 頭領が決して姿を見せぬという、その用心深い性格。

 砦の北側にある、古い見張り櫓。

 そして、食料庫の位置。

 それらの情報が、勘助の海図と結びついた瞬間、源次の脳内で、完璧な勝利の方程式が完成した。


(見える……!)


 彼の筆が、地図の上を走り始めた。

 それはもはや、ただの書き写しではない。未来の戦場で起こるであろう全ての事象を、寸分の狂いもなく記述した、「脚本」の執筆だった。


 ――大潮の夜、潮が満ちる勢いに乗って、権兵衛の操る船団が正面から陽動を仕掛ける。だが、本気で攻めるのではない。敵の注意を、港の一点に引きつけるための、見せかけの攻撃だ。

 ――その陽動に敵が気を取られた、ただその一瞬。風が東から西へと吹く、その流れに乗り、新太率いる陸の部隊が、秘密の入り江から音もなく上陸する。

 ――そして、内通者の手引きで砦の心臓部・食料庫に火を放つ。砦内は大混乱に陥り、兵たちのほとんどが火消しのために裏手へと殺到する。

 ――その隙に、完全に手薄になった正面の港を、陽動を行っていたはずの水軍本隊が一気に強襲する。


 陸と海、内と外、そして天の時までもを味方につけた、誰も想像し得なかった挟撃の策。

 全ての変数――天候、潮汐、地形、敵の心理、味方の練度――が、彼の頭の中で一つの、完璧な勝利の方程式へと収束していく。

 その完璧すぎる筋書きに、源次自身が戦慄を覚えるほどだった。


「……吉平」

 彼は、誰に言うでもなく、静かに呟いた。

「お前の血は、この脚本の、最初のインクとなった。この勝利は、お前の血の上に成り立つ。だからこそ、俺は一滴の血も無駄にはしない。この脚本を、これ以上の犠牲者を出さずに、完璧に演じきってみせる」


 やて、東の空が白み始めた頃。

 源次は、ついに筆を置いた。

 彼の目の前には、完璧な勝利への道筋が、一寸の隙もなく描き出されていた。


 軍師としての高揚と、一人の人間としての罪悪感。

 その二律背反する感情を押し殺し、彼は天幕の外に立つ夜番の兵に、短く告げた。


「――軍議を開く」


 その声は、もはや井伊家の近侍のものではなかった。

 一つの軍の、そして一つの家の運命を、その双肩に背負う、真の軍師の声であった。

「中野殿、新太殿、そして権兵衛殿を。……井伊水軍の、浜名湖制圧のための最初の、そして最後の軍議だ」

 彼の背中には、これから始まる壮大な作戦の重みと、その先に待つであろう血と炎の匂いが、確かな現実として、のしかかっていた。

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