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第266節『二つの戦場』

第266節『二つの戦場』

 静かな開戦の火蓋が切って落とされてから、数日が過ぎた。

 浜名湖畔に築かれた井伊水軍の拠点は、表面的には何も変わらない日常を繰り返していた。兵たちは訓練に明け暮れ、造船所からは槌音が響き、湖には漁をする小舟が浮かぶ。だが、その水面下では、二つの全く異なる戦いが、息詰まるような緊張感の中で同時並行に進んでいた。


 一つは、「知」の戦場。

 軍議のために張られた天幕の中、源次はたった一人、巨大な地図の前で孤独な戦いを続けていた。

 彼の前には、村櫛湊に潜入した弥八から届けられた、砦の内部構造に関する断片的な情報が置かれている。それらは、あまりに不確かで、意味をなさない情報の欠片だ。


「敵船、大小合わせて三十隻……」

「頭領、用心深く姿を見せず……」

「砦の北側、古い櫓あり……」


 源次は、それらのキーワードを、地図の上に小さな木札として置いていく。

 夜。油皿の灯が揺れる中、彼はその木札を睨みつけ、指で何度も動かしながら、思考の海へと深く潜っていった。

(三十隻か。思ったより多いな。だが、全部が軍船とは限らない。荷物を運ぶだけの鈍い船や、漁に使うだけの小舟も混じっているはずだ。見かけの数に惑わされるな。本当に怖いのは、どれだけあるのか……)

 彼は別の紙に、船の種類ごとの強さを「大・中・小」と分け、数を数え始めた。

(頭領が姿を見せない……。これは何を意味する? ただ用心深いだけか? それとも、部下たちにすら顔を見せられない、何かやましいことでもあるのか。トップが現場に出てこない組織は、いざという時にもろい。これは突ける隙になるかもしれん)


 彼の脳は、これまでの経験と、手元にあるわずかな情報を組み合わせ、情報の裏に隠された真実をあぶり出そうとしていた。それは、まるで暗闇の中で、手探りで巨大な獣の姿を確かめていくような、途方もない作業だった。

 時には、矛盾する情報が届き、彼の考えを根底から覆すこともあった。

「……違うな。この潮の流れじゃ、大きな船はあの狭い海峡を通れないはずだ。斥候の報告は、どこかおかしい。敵に嘘の情報を掴まされたか、あるいは斥候自身が何かを見間違えているのか……? いかん、もう一度考え直しだ」

 彼は頭を抱え、何度も何度も筋書きを組み立て直す。眠る時間も惜しみ、食事も喉を通らない。彼の精神は、この見えざる敵との知恵比べによって、極限まですり減らされていた。

 時折、心配した中野直之が天幕を訪れるが、その鬼気迫る姿を前に、声をかけることすらできずに立ち去るのだった。


 もう一つは、「武」の戦場。

 湖の上では、新太による壮絶な練兵が繰り広げられていた。

 源次から「最強の刃を鍛え上げろ」という任を託された彼は、その言葉を違えることなく、自らが知る武田流の訓練の全てを、兵たちに叩き込んでいた。


「遅い! 櫂の角度が甘い! それでは波に呑まれるだけだぞ!」


 轟くような怒声が、湖上に響き渡る。

 二隻の船を並べ、その間に渡した一本の丸太の上で、兵たちは槍を交わしていた。足元は絶えず揺れ、一瞬でも体幹がぶれれば、冷たい湖水へと真っ逆さまだ。

 山の兵は、もはや船酔いで弱音を吐く者はいなかった。彼らは歯を食いしばり、漁師たちの巧みな足さばきを必死に盗もうとしていた。

 海の兵もまた、ただ船を操るだけではない。揺れる足場でいかに槍を突き、敵の攻撃をいなすか、武士たちの体捌きに食らいついていた。


「もっと腰を落とせ! 波の揺れを膝で殺すんだ! 船と一体になれ!」


 新太は、自らも丸太の上に立ち、手本を見せた。その動きは、まるで水面に根が生えているかのように安定し、一切のブレがない。彼の槍が唸りを上げるたびに、兵たちはその圧倒的な武の前に、ただ感嘆の息を漏らすしかなかった。

 夜になっても訓練は終わらない。今度は、松明の明かりだけを頼りに、夜間の艦隊行動訓練が行われる。暗闇の中、旗信号も見えない状況で、太鼓の音と法螺貝の響きだけを頼りに、陣形を組み、敵船(と想定した舟)に接近する。

 それは、兵たちの五感を極限まで研ぎ澄ませるための訓練だった。


 訓練が終われば、兵たちは身分の隔てなく、同じ焚き火を囲んで飯を食った。

「新太様、今日のあの槍筋、どうすれば……」

「ふん、百年早い。だが、教えてやらんこともない。その代わり、明日はお前の操船術を俺に教えろ」

 新太は、ぶっきらぼうにそう答えながらも、兵たちの輪の中に溶け込んでいた。武田にいた頃の孤独な影は、そこにはもうない。彼を「若」と慕うかつての仲間と、彼を「船手頭」と尊敬する新しい仲間たち。その両方に囲まれ、彼は初めて、組織を率いる将としての喜びと責任を感じ始めていた。

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