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第265節『友との対話』

第265節『友との対話』

 潜入部隊が敵地で命がけの情報戦を繰り広げている、まさにその頃。井伊水軍の拠点は、束の間の静寂に包まれていた。だが、その水面下では、来るべき決戦に向けた壮絶な練兵が続けられていた。

 源次は一人、喧騒から離れた浜辺に立ち、夕暮れの湖面を眺めていた。寄せては返す波の音だけが、彼の思考の伴侶だった。

(勘助たちには、最も危険な役目を背負わせてしまった。彼らが情報を持ち帰るまでに、こちらも万全の備えをせねば)

 彼の視線は、拠点の中央, 兵たちが槍や操船の訓練に励む練兵場へと向けられていた。


 やがて、背後から砂を踏む足音が近づいてきた。振り返るまでもなく、その重く、しかし無駄のない歩調が誰であるかを告げていた。

「……源次」

 新太だった。彼は槍を肩に担ぎ、源次の隣に立つと、同じように湖の闇を見つめた。

「勘助たちは、まだ戻らんか」

「ああ。だが、信じて待つしかない」

 しばしの沈黙。波の音だけが、二人の間に流れる。

 やがて、新太が苛立ちを隠せないといった様子で、低い声で口を開いた。


「なぜだ」

 その声は、静かだが、抑えられた獣の唸り声のように響いた。

「なぜ、俺をあの部隊に入れなかった。斥候や潜入は、武田にいた頃から俺が最も得意とするところだ。俺が行けば、奴らの首の一人や二人、たやすく取ってこれたものを。なぜ、俺をこの浜辺に縛り付けておく」

 その言葉には、自らの武勇を発揮する場を与えられないことへの焦燥と、最も危険な役目を他の者たちに負わせてしまったことへの、彼なりの責任感が滲んでいた。彼は、ただ戦いたいだけの猪武者ではない。仲間を守るためならば、自らが最も危険な場所に立つことを厭わない男なのだ。


 源次は、彼のその苛立ちを、静かに受け止めていた。

(分かっているさ、新太。お前の気持ちは。お前は、自分が一番強いと知っている。だからこそ、一番危険な場所へ行きたがる。だがな……)

 彼は、ゆっくりと新太に向き直った。その眼差しは、軍師が将に向ける冷徹な光ではなく、友が友に向ける、温かくも真摯な光を宿していた。


「新太。お前は、俺の最後の切り札だ」

 源次の声は、波音に負けぬほど、はっきりと響いた。

「切り札というものは、軽々しく見せるべきじゃない。斥候ごときでお前の力を示せば、敵は必ず対策を講じてくる。お前のその鬼神のごとき武勇は、敵が最も油断し、俺たちが勝利を確信した、ただその一瞬のためにこそ使われるべきなんだ」

 新太は、ぐっと言葉に詰まった。源次の言葉は、彼の武勇を否定するものではなく、むしろその価値を最大限に認め、最も効果的に使うための「理」を示していたからだ。


 源次は、新太の肩にそっと手を置いた。

「それに、お前の本当の役目は、潜入なんかじゃない」

 彼の視線が、訓練に励む兵たちへと向けられる。

「俺が『脳』となり、策を練る。権兵衛殿が『目』となり、道を示す。だが、その全てを現実の力に変えるのは、お前しかいないんだ。お前がこの水軍の『槍』となり、兵たちを鍛え上げ、一つの魂としてまとめ上げる。その役目こそが、俺にはできない、お前にしかできないことなんだ。お前の戦場は、ここだ。俺が安心して背中を預けられる、最強の刃を研ぎ澄ませておいてくれ」


 そして、源次は最後に、悪戯っぽく笑って付け加えた。

「頼んだぞ、――俺の、唯一無二の相棒」


 相棒。

 その気障で、しかし何よりも心に響く言葉。

 それは、評定の場で与えられた「船手頭」という役職名よりも、遥かに深く、新太の心を揺さぶった。

 武田にいた頃、彼は常に孤独だった。だが、今、自分の隣には、自らの力を誰よりも信じ、対等な仲間として背中を預けてくれる男がいる。

 新太の胸の内で、燻っていた苛立ちや焦りが、すっと消えていくのを感じた。代わりに湧き上がってきたのは、この友の、そして自分を将として認めてくれた主君の期待に、必ず応えねばならぬという、武人としての誇りと、友としての熱い想いだった。


 彼はもう何も言わなかった。

 ただ、「……ふん。任せておけ」と短く呟くと、力強く、一度だけ頷いた。そして、踵を返し、訓練場へと戻っていった。

 その背中には、もはや焦りの色はなかった。自らの戦場がどこにあるのかを悟り、友のために最強の槍を研ぎ澄ますことに集中する、真の将の背中だった。


 源次は、その後ろ姿を見送りながら、静かに息を吐いた。

(……これでいい。俺たちは、ただの軍師と将じゃない。互いの背中を預け合える友だ。そうでなければ、この先の大きな戦は乗り越えられない)

 湖面を渡る夜風が、彼の頬を冷たく撫でた。

 情報戦という静かな戦場と、練兵という熱い戦場。二つの戦場で、二人の友は、それぞれのやり方で、来るべき決戦の準備を始めた。その絆は、もはや誰にも断ち切ることのできない、井伊家の未来そのものとなっていた。


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