第264節『血染めの密書』
第264節『血染めの密書』
井伊谷と村櫛湊を結ぶ街道は、昼なお暗い森閑とした山道へと差し掛かっていた。
木々の葉が陽光を遮り、道には苔むした岩が転がる。時折、獣が藪を揺らす音がするだけで、人の気配はまるでない。
その道を、一人の男が息を切らしながら駆け抜けていた。
名を、吉平という。井伊家に仕える者ではなく、源次がその身軽さと口の堅さを見込んで雇った、足の速さだけが自慢の若者だった。彼の役目はただ一つ、村櫛湊に潜む勘助たちからの密書を受け取り、風のように井伊谷へと届ける連絡員。この情報戦における、最も重要な血管であった。
彼の懐には、油紙に固く包まれた一巻の書状が、心臓の鼓動に合わせて小刻みに揺れていた。
昨夜、湊の外れで勘助から手渡された、あの海図だ。
『――これが、我らの命運を分ける一枚だ。必ずや、軍師様の元へ届けろ。何があっても、だ』
勘助の、血が滲むほどに固く握られた手と、その目に宿る鬼気迫る光が、この紙片の重さを何よりも雄弁に物語っていた。
(必ず、届ける……!)
吉平は、ぬかるむ地面を蹴り、木の根を飛び越えながら、ひたすらに走った。
彼は知らない。この紙切れ一枚が、どれほどの戦略的価値を持つのかを。ただ、自分に託された任務の重大さと、それを託してくれた男たちの覚悟だけを、肌で感じていた。それが、彼の足を前に、前へと突き動かしていた。
峠の頂上に差し掛かり、一息つこうと立ち止まった、その時だった。
ヒュッ、と風を切る音。
彼のすぐ横の木の幹に、一本の矢が深々と突き刺さった。
「……っ!」
吉平は咄嗟に身を伏せた。心臓が凍り付く。
前方の藪が、がさりと揺れた。そこから現れたのは、弓を構えた三人の男たち。その服装、その鋭い目つきは、ただの山賊ではない。村櫛党の追手だった。
「……見つけたぜ、井伊の犬が」
リーダー格の男が、舌なめずりをするように言う。
「お前がここ数日、湊を嗅ぎ回っていたことは分かっている。大人しく、懐のものを差し出しな。そうすりゃあ、苦しまずに殺してやる」
勘助たちの動きは、やはり気づかれていたのだ。源次が張り巡らせた情報網は、敵の間者によって逆探知されていた。
絶体絶命。
吉平の脳裏に、死の二文字が浮かんだ。だが、それと同時に、勘助のあの言葉が雷鳴のように響き渡る。
『――何があっても、だ』
(……ここで死ぬわけには、いかねえ)
彼は、ゆっくりと立ち上がった。両手を上げ、降参するふりを見せる。
「わ、分かった。渡す。渡すから、命だけは……」
追手の男たちの顔に、油断の笑みが浮かんだ。彼らが弓を下げ、ゆっくりと近づいてくる。
その一瞬の隙を、吉平は見逃さなかった。
「――今だ!」
彼は叫ぶと同時に、懐の書状を取り出すのではなく、隠し持っていた煙玉を地面に叩きつけた。
ボンッ、という音と共に、目に染みるほどの濃い煙が辺り一面に広がる。
「なっ……! 小賢しい真似を!」
追手たちが咳き込み、混乱する。その隙に、吉平は彼らに背を向け、崖とは逆方向の、森の奥深くへと駆け出した。
「追え! 逃がすな!」
怒号が背後から迫る。
だが、これは吉平が仕掛けた、命がけの陽動だった。彼は、自らが囮となることで、密書を守り抜く覚悟を決めていたのだ。
森の中を、必死に走る。木の枝が顔を打ち、足はもつれ、肺は焼けつくように痛い。
背後からは、矢が雨のように降り注ぐ。
一本が、彼の肩を浅くかすめた。熱い痛みが走り、足が止まりそうになる。
(まだだ……まだ……!)
彼は、最後の力を振り絞り、あらかじめ目星をつけておいた、巨大な樫の木の根元へと転がり込んだ。
その根元には、獣が冬眠にでも使うかのような、深い洞が口を開けていた。
彼は、震える手で懐から書状を取り出すと、それを洞の最も奥深くへと押し込んだ。そして、その入り口を枯れ葉と土で巧みに隠した。
これでいい。たとえ自分がここで死んでも、この密書は残る。源次が放った別の連絡員が、必ずやこれを見つけ出してくれるはずだ。
「見つけたぞ! そこか!」
追手の声が、すぐそこまで迫っていた。
吉平は、深手を負った肩を押さえながら、最後の力を振り絞って立ち上がった。そして、木の洞に背を向け、追手たちとは全く別の方向へと、再び駆け出した。
「こっちだ、馬鹿ども! 追ってこれるもんなら、追ってこい!」
それは、自らの命を捨てて、情報を守り抜こうとする者の、誇り高き最後の咆哮だった。
数刻後。
井伊谷の拠点では、源次が天幕の中を苛立たしげに歩き回っていた。
約束の時刻を、すでに半日以上過ぎている。村櫛湊からの連絡員が、まだ到着しない。
「……何か、あったのか」
彼の胸を、最悪の予感が締め付ける。
日が傾き、焦りが彼の冷静さを蝕み始めた、その時だった。
「申し上げます!」
天幕に駆け込んできたのは、源次が街道の要所要所に配置していた、山伏姿の監視役の一人だった。
「半刻ほど前、峠の麓で村櫛党の追手と思われる三名の男とすれ違いました。彼らの矢筒には血が付着しており、『井伊の犬は始末した』と話しているのを、この耳で確かに」
「……そうか」
源次は、短く応えた。その顔から、すっと表情が消える。
(やられたか、吉平……)
だが、悲しみに浸っている時間はなかった。彼は即座に頭を切り替えた。
「男たちの向かった方角は?」
「はい。西の湊へ……。荷は何も持っておりませんでした」
(荷がない……つまり、密書は奪われていない。ならば、吉平は必ずどこかに隠したはずだ。あいつは、そういう男だ)
源次は、吉平という男の性格を思い出していた。口は堅く、機転が利く。そして、一度受けた任務は命に代えてもやり遂げる、驚くほどの忠誠心。そんな彼が、ただ無駄死にするはずがない。
「追手と遭遇したのは、どの辺りだ」
「はっ。古い樫の木が目印となる、見通しの悪い峠道にございます」
源次は、出立前に吉平と交わした、何気ない会話を思い出した。『もし万が一のことがあれば、目印となる場所に必ず証を残せ』。その際の打ち合わせで、緊急の隠し場所としていくつかの候補を挙げていた。その一つが、街道沿いにある巨大な樫の木の洞だったのだ。
「山伏をもう一人、すぐに手配しろ」
源次は、別の連絡員に鋭く命じた。
「お前が行け。樫の木の洞だ。必ず見つけ出し、何があっても持ち帰れ」
「御意」
山伏は、一礼すると、音もなく闇に消えていった。
その日の深夜。
源次の天幕に、その山伏が戻ってきた。
彼の顔は疲労に歪み、その手には、一つの小さな巻物が握られていた。
だが、その巻物は、無傷ではなかった。
油紙の上から、べっとりと、赤黒いものが付着していた。
血だった。
吉平が、最後の力を振り絞って隠した、その血。
源次は、その血染めの密書を、震える手で受け取った。
紙片一枚の重みが、これほどまでに重く感じられたことはなかった。
それは、ただの情報ではない。名もなき一人の若者が、その命と引き換えに守り抜いた、井伊家の未来そのものだった。
「……吉平。お前の死、決して無駄にはしない」
源次は、蝋燭の炎に照らされた密書を広げながら、誰にも聞こえぬ声で、固く、固く誓った。
彼の目には、涙ではなかった。自らの策のために散った、忠実な若者の犠牲を勝利に変えるという、鬼神のごとき決意の炎が燃え盛っていた。