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第263節『内通者』

第263節『内通者』

 村櫛砦の中での日々は、弥八にとって針のむしろそのものであった。

 四六時中つきまとう監視の目と、一つの失言が死に直結する極度の緊張感。彼は、源次から与えられた「誰よりも忠実な働き者」という仮面を完璧に被りながら、この鉄壁の砦の内部構造を、その五感の全てを使って記憶に刻みつけていた。


 だが、彼一人の力では限界があった。砦の心臓部――頭領の館周辺は、古参の兵によって固められ、新参者の彼が近づくことすら許されない。

(……これ以上は、俺一人じゃ無理だ。外からの情報が必要だ)

 弥八は、あらかじめ示し合わせていた方法で、外部との接触を試みた。それは、月に一度、砦が近隣の村から食料を買い付ける日を狙った、危険な賭けだった。


 市場の喧騒の中、弥八は荷運びの人足に紛れ、指定された荷駄の車輪の隅に、他の者には分からない小さな傷をつけた。それは、外部で待機する佐平への「接触準備完了」の合図だった。

 その日の夕刻。荷運びを終えた弥八は、一人、砦の外れにある共同の洗い場へと向かった。そこで彼を待っていたのは、物売りの老婆に扮した佐平だった。


「……弥八か。顔色が悪ぃな」

「へっ、あんたこそ、その婆さんのなりは様になってるじゃねえか」

 短い軽口。だが、二人の目には笑いはない。

「砦の奥には入れねえ。特に頭領の館は、古参の連中が固めてやがる」

 弥八の報告に、佐平は頷いた。

「分かってる。だから、手は打っておいた」

 佐平は、この数日間、酒場で集めた情報を弥八に囁いた。それは、砦の内部にいるであろう「不満分子」に関する、いくつかの噂だった。

「その中に、藤吉とうきちという男がいるはずだ。古参の兵で、数年前に頭領に兄貴を殺されたらしい。奴なら、乗ってくるかもしれねえ」

 それは、まだ噂の段階の、不確かな情報。だが、今の弥八にとっては、唯一の蜘蛛の糸だった。


「……分かった。探してみる」

 弥八は、佐平から受け取った小さな紙片――藤吉の人相書き――を懐にしまうと、再び砦の闇へと戻っていった。

 二人の接触は、ほんの数分。だが、それは互いの命を危険に晒す、綱渡りのような連携だった。


 その夜、弥八は藤吉を探し出し、接触に成功した。

 源次から教わった人心掌握の術を駆使し、兄の仇を討ちたいという彼の復讐心に火をつけ、ついに内通者として引き込むことに成功する。藤吉は、自らが長年描きためていた砦内部の詳細な見取り図を、弥八に託した。

(……やった。軍師様……!)

 弥八は、この一枚の紙が持つ、計り知れないほどの価値を理解していた。


 だが、問題はここからだった。

 このあまりに重要な情報を、どうやって外へ持ち出すか。

 砦の出入りは厳しく監視されており、一度入った者が再び外へ出ることは、特別な許可なくしては不可能に近い。伝書鳩を飛ばすなど、論外だ。

 弥八は、藤吉と二人、倉庫の暗がりで頭を悩ませていた。

「……駄目だ。見張りが厳しすぎる。外に出ることはできねえ」

「ならば、俺が」と藤吉が言った。「俺は古参だ。明日、湊へ買い出しに行く役目がある。その際に……」

「いや、あんたが動けば怪しまれる。俺がやる」


 弥八は、一つの危険な賭けに出ることを決意した。

 彼は、見取り図の最も重要な部分――頭領の館の構造と抜け道の情報――を小さな木の札に暗号で刻むと、それを油紙で固く包んだ。

 そして、深夜、彼はわざと見張りの前で失態を演じ、懲罰として「便所掃除」を命じられた。

 悪臭立ち込める便所の、その最も汚れた汚物槽の底。彼はそこに、木の札を隠したのだ。

 汚物は、翌朝、砦の外の肥溜めへと運ばれる。その中に紛れ込ませれば、誰にも怪しまれずに情報を外へ持ち出せる。


 翌朝。

 肥溜めの近くで、物乞いを装って待機していた井伊の連絡員が、その汚物の中から、悪臭にまみれた小さな木の札を、誰にも気づかれることなく回収した。


 その重要な情報が、複数の連絡員の手を経て、幾重もの警戒網をくぐり抜け、井伊谷の源次の元へと届けられたのは、それからさらに数日後のことだった。


 届けられた木の札は、汚物にまみれ、道中の湿気で僅かに歪んでいた。源次は、その汚れた木の札を手に取り、それを届けるために弥八がどれほどの知恵と覚悟を要したかを思い、静かに頭を垂れた。

 刻まれた暗号を解読し、砦の心臓部が暴かれていく。だが、源次の表情は険しいままだった。

「……これだけでは足りない」


 彼は、天幕に広げた地図の上に、弥八からの情報を書き込みながら呟いた。砦の内部構造は分かった。だが、それはあくまで「城」という堅牢な箱の中身に過ぎない。その箱にたどり着くための「鍵」がなければ、宝の地図も同然だった。

 出陣前、彼は勘助に特別な密命を与えていた。『砦の周囲の海を調べ、潮の流れが作る、ただ一つの隙を見つけ出せ』と。源次の潮読みの知識と、勘助の海の経験則が合わされば、必ずや敵の意表を突く「道」が見つかるはずだと。


 弥八が内からの「扉」を見つけた今、作戦を完成させるには、勘助が見つけ出すはずの、外からの「鍵」が不可欠だった。もし、その情報が届かなければ、この見取り図も、弥八の命がけの潜入も、全てが無に帰す。

 源次は、焦燥感を押し殺し、勘助からの最後の報せを、息を詰めて待ち続けた。彼の描く完璧な脚本は、その最後の、そして最も重要な一行が、まだ空白のままだった。

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