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第262節『虎の穴へ』

第262節『虎の穴へ』

 勘助たちが外から砦の弱点を探る一方、もう一つの刃が、敵の懐深くへと突き立てられようとしていた。

 村櫛湊は、昼下がりの気怠い空気に包まれていた。潮の香りに混じって、どぶ板の下から立ち上る汚泥の匂いが鼻を突く。港で一番荒くれ者が集う酒場「千鳥」の店内は、日が高いうちから酒気を帯びた熱気が渦巻いていた。


 その店の片隅で、一人の男が荒々しく杯を呷っていた。

 名を、弥八やはちという。

 日に焼けた肌、節くれだった指。一見すればただの漁師上がりのならず者。だが、その目の奥には、そこらのチンピラとは質の違う、鋭い光が宿っていた。彼は、源次が選び抜いた潜入部隊の一員。その役目は、自らの武勇を餌に、村櫛党の懐深くへと潜り込むことだった。


「――おい、そこの兄さん。なかなか良い飲みっぷりじゃねえか」


 不意に、横から声がかかった。見れば、村櫛党の紋を染め抜いた小袖を着た、体格のいい男が数人を引き連れて立っている。村櫛党の中でも、いくらかの兵を預かる小頭クラスの男だった。

 弥八は、男を一瞥すると、興味なさそうに鼻を鳴らした。

「……あんたにゃ関係ねえだろ」

 そのあまりに不遜な態度に、小頭の背後にいた手下たちが色めき立つ。「てめえ、誰に向かって口を利いてやがる!」「かしらに詫びを入れろ!」


 だが、弥八は動じなかった。彼はゆっくりと立ち上がると、自分より頭一つ分は大きい手下たちを、値踏みするように見回した。

「……弱い犬ほどよく吠えるもんだな。俺は、弱い犬と話す趣味はねえんだ」

 その一言が、引き金だった。

「言ってくれるじゃねえか!」

 手下の一人が、怒りに顔を歪ませ、掴みかかってくる。

 その瞬間を、弥八は待っていた。


 彼は、相手が振り上げた拳を紙一重でかわすと、流れるような動きでその腕を掴み、捻り上げる。骨がきしむ鈍い音。男の悲鳴。弥八はそのまま、男の身体を盾にするようにして、残りの手下たちと対峙した。

 店内が、一瞬で修羅場と化した。卓がひっくり返り、酒瓶が割れる。他の客たちは、蜘蛛の子を散らすように壁際へと逃げ惑った。

 弥八は、狭い店内をまるで踊るように立ち回った。彼は、ただ力任せに殴り合うのではない。相手の力の流れを読み、最小限の動きでいなし、的確に関節を狙う。それは、武士の剣術とは全く違う、生きるために磨き上げられた、実戦の喧嘩殺法だった。

 一人、また一人と、屈強な海賊たちが床に転がっていく。


 小頭は、その光景を腕を組んで黙って見ていた。その目には、怒りではなく、面白いものを見つけたかのような、好奇の色が浮かんでいた。

 やがて、最後の手下を叩きのめした弥八が、荒い息を整えながら、小頭を睨みつけた。

「……あんたが、こいつらの親玉か」

「そうだ」と小頭は頷いた。「なかなかやるじゃねえか。その腕、どこで磨いた」

「我流だ。生きるためにな」

 弥八は、吐き捨てるように言った。その声には、世をすね、何者にも従わぬ一匹狼の響きがあった。


 小頭の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。

「……面白い。行き場がねえなら、俺たちの下で働かねえか? 腕っぷしさえあれば、飯には困らせねえぜ」

 その誘いの言葉を、弥八は待っていた。

 だが、彼はすぐには頷かなかった。

「……へっ、侍の下でこき使われるのは、もうご免でな」

 彼は、あえて井伊家への不満を装った。それは、源次と打ち合わせた脚本通りのセリフだった。自分は井伊家に仕官しようとしたが、足軽上がりの出自を理由に冷遇され、嫌気がさして出奔してきた、という筋書き。

「だが、あんたたちの下なら、腕次第でのし上がれそうだな。悪くねえ。願ってもねえ話だ」


 その言葉に、小頭は豪快に笑った。「決まりだ! 今日からお前も、村櫛党の一員だ!」。しかし、その目は笑っていなかった。弥八の言葉を鵜呑みにはしていない。その気骨と腕前が本物かどうか、試す必要があると考えていた。

 その夜、弥八は寝床としてあてがわれた倉庫で、古参の海賊数人に囲まれた。「新入りの度胸を見せてもらおうか」。リンチに近い「歓迎」が始まった。多勢に無勢。弥八は殴られ、蹴られ、泥水の中に顔を押し付けられた。だが、彼は決して悲鳴を上げず、屈することもなかった。逆に、相手の一人の腕を掴むと、渾身の力で捻り上げ、骨を折るほどの気骨を見せた。

 翌朝、その報告を受けた小頭は「面白い。あれは本物だ」と呟き、初めて弥八を本当の仲間として認める目を向けた。


 弥八は、その手を取り、固い握手を交わした。

 だが、その内心は、氷のように冷え切っていた。

(……掛かったな)

 彼の胸には、軍師・源次から託された大役の重圧がのしかかっていた。

(しくじれば、俺一人の命じゃ済まねえ。勘助さんたちも、そして井伊水軍そのものも、危険に晒すことになる。だが、ここで手柄を立てれば、俺も侍になれるかもしれねえ……! いや、そんなことはどうでもいい。俺は、軍師様と、あの直虎様の期待に応えたいだけだ)

 かつて、ただのならず者だった自分。その自分に、「お前のその腕は、百本の槍にも勝る力になる」と言って、初めて役割を与えてくれた男。その男のために、彼はこの危険な任務に、自らの人生の全てを賭けていた。


 その日の夕刻。

 弥八は、小頭に連れられ、他の新入りたちと共に、村櫛砦の重い木戸をくぐった。

 砦の中は、外から見た以上に堅牢で、殺伐とした空気に満ちていた。櫓の上からは鋭い視線が絶えず注がれ、すれ違う海賊たちの誰もが、武器を手放していない。

 ゴゴゴゴ……。

 彼の背後で、巨大な木戸が、外界とを遮断するかのように、重々しい音を立てて閉ざされた。

 その音は、彼が完全に虎の穴へと足を踏み入れたことを示す、後戻りのできない宣告のようであった。

 弥八は、一瞬だけ空を仰いだ。

 夕陽に赤く染まった雲が、まるで血の色のように見えた。

 彼は、自らの運命を受け入れるかのように、静かに目を閉じると、再び顔を上げた。その瞳には、もはや恐怖の色はなかった。ただ、与えられた役目を完璧に演じきり、この地獄から生還するという、鋼のような決意だけが宿っていた。

 彼の、孤独で、そして最も危険な戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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