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第261節『海図なき航海』

第261節『海図なき航海』

 その夜、村櫛湊の空は、嵐の前触れを告げるかのように重く垂れ込めていた。

 生暖かい風が海から吹きつけ、停泊している船のマストを不気味に軋ませる。波は次第に高くなり、桟橋に打ち付けては白い飛沫を上げていた。海の民である村櫛党の者たちですら、今夜ばかりは早々に酒場から引き上げ、戸を固く閉ざして嵐が過ぎ去るのを待っていた。港は、不気味なほどの静寂に包まれていた。


 その静寂を破るように、港の片隅で、一隻の小さな手漕ぎ舟が、荒波に木の葉のように翻弄されていた。

「おい、何をしている! こんな夜に舟を出す気か!」

 見張りの海賊が、櫓の上から怒鳴りつける。

 舟の上では、勘助が必死の形相で舟べりにしがみつき、叫び返した。

「すまねえ! 舫い綱が切れちまった! このままじゃ、沖に流されちまう!」

 その言葉通り、舟は風と波に煽られ、桟橋からずるずると引き離されていく。見張りの男は「馬鹿野郎が!」と舌打ちしたが、この時化の中で助けに行くほどの義理もない。彼は、やがて闇に吸い込まれていく小舟の影を、ただ見送るだけだった。


 だが、それは全て、勘助が仕組んだ芝居だった。

 彼は、この嵐の夜こそが、敵の監視の目を欺き、村櫛砦周辺の海域を調査する唯一無二の好機だと判断したのだ。

(軍師様は言っていた。『どんな完璧な守りにも、必ず自然が作る隙がある』と。この嵐こそが、俺に与えられた隙だ)


 舟が港の明かりから完全に離れ、漆黒の闇に包まれた瞬間、勘助の表情から必死の色は消えた。代わりに宿ったのは、荒れ狂う自然と対峙する、熟練した漁師の顔だった。

「……さて、ここからが本番だ」

 彼は、腰に巻いた命綱を船体に固く結びつけると、巧みな櫂さばきで、波のうねりの合間を縫うように舟を進め始めた。それは、ただ力任せに漕ぐのではない。波が舟を持ち上げる瞬間には力を抜き、波が引く力に合わせて櫂を入れる。まるで、荒馬を乗りこなすかのように、彼は舟と、そして海と一体化していた。


 目指すは、村櫛砦。

 昼間、遠目に見たあの岬の先にある、海に浮かぶ要塞。

 風雨が容赦なく叩きつけ、視界はほとんど効かない。頼りになるのは、長年この海で培ってきた、自らの身体に刻み込まれた記憶と勘だけだった。

 左手に見える、かすかな山の稜線の形。

 頬を打つ波飛沫の塩辛さの変化。

 そして、船底に伝わる、海流のかすかな振動。

 それら全てが、彼にとっての海図であり、羅針盤だった。


 やがて、闇の向こうに、巨大な黒い影がぼんやりと浮かび上がってきた。村櫛砦だ。

 崖に打ち付ける波の轟音が、地鳴りのように響き渡る。

 勘助は、砦に近づきすぎることなく、その周囲を大きく迂回し始めた。彼の真の目的は、砦そのものではなく、その足元――誰も知らないはずの、海の秘密を探ることだった。


 彼は、この海域にまつわる古い言い伝えを思い出していた。

 ――『大潮の夜、竜神様の道が開かれる。じゃが、その道を見た者は、二度と帰ってはこない』

 子供の頃、祖父から聞かされたただの迷信。だが、源次から「潮の満ち引きを計算すれば、必ずどこかに隙があるはずだ」と告げられた時、勘助の脳裏に、その古い記憶が稲妻のように蘇ったのだ。

(竜神様の道……。それは、迷信なんかじゃねえ。大潮の干潮時にだけ現れる、隠された水路のことじゃねえのか?)


 舟は、激しく揺れた。

 船べりが水面を叩き、冷たい海水が容赦なく降りかかる。体温は奪われ、指先の感覚は麻痺し始めていた。

 だが、勘助の目は、闇よりもなお暗い水面の一点を見つめていた。

 波の立ち方が、そこだけ僅かに違う。

 周囲の波が岩に砕けて白い飛沫を上げているのに、その一点だけは、まるで何かに吸い込まれるように、静かに渦を巻いていた。

(……あった)

 声にならない声が、喉から漏れた。

 彼は、櫂を巧みに操り、その渦の中心へと舟を導いていく。

 舟が、ごつん、と何かに乗り上げた。座礁か、と一瞬肝を冷やす。だが、違う。それは、水面下に隠れていた、平らな岩礁だった。

 勘助は、息を殺して周囲を見渡した。

 そこは、切り立った崖と、鋭く尖った岩礁に囲まれた、小さな入り江だった。

 外海の荒波が嘘のように、入り江の中は不気味なほどに静まり返っている。見上げれば、村櫛砦の裏手の絶壁が、天を突くようにそびえ立っていた。


「……ここか。竜神様の道は、ここだったのか」


 それは、大潮の干潮時にのみ、その姿を現す秘密の港。

 砦の正面は、鉄壁の守り。だが、その背後に、このような天然の通用口が存在していたとは、村櫛党の者たちですら気づいていないだろう。

 勘助は、震える手で懐から防水の油紙に包んだ紙と炭を取り出すと、この奇跡のような地形を、目に焼き付けるように描き留め始めた。

 風の向き。潮の流れ込む角度。上陸可能な浜辺の広さ。そして、崖を登るための僅かな足場。

 その一枚の地図が、この戦の行方を完全に左右することになる。


 舟が転覆しかけるほどの危機を乗り越え、九死に一生を得て湊へと戻った時、空は白み始めていた。

 勘助の服は破れ、体は無数の切り傷で血に濡れていた。だが、その目には、疲労を遥かに凌駕する、勝利を確信する光が宿っていた。

 彼は、この命がけで得た「神の道」の地図を、急ぎ井伊谷へ送る手はずを整えた。

 嵐の夜の海図なき航海は、井伊水軍に、敵の心臓を貫くための一本の、鋭利な矢をもたらしたのだった。

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