第260節『用心深い鬼』
第260節『用心深い鬼』
村櫛湊に潜入して数日、勘助と佐平は、情報戦の新たな壁に直面していた。
酒場や浜辺で得られた情報は多い。村櫛党の拠点があの岬の先の『村櫛砦』であること、そして組織内部に頭領への不満が燻っていること。だが、最も重要な頭領その人の人物像だけが、分厚い霧の向こうにあるかのように、全く見えてこない。
その夜、二人が密かに落ち合っている安宿の一室は、重い沈黙に包まれていた。
「……駄目です、勘助さん。頭領の話になりゃ、誰もが貝のように口を閉ざしちまう。まるで、その名を口にすることすら禁じられているみてえだ」
佐平は、悔しげに卓の上の空の杯を睨みつけた。持ち前の弁舌をもってしても、恐怖という名の壁を打ち破ることができない。その無力感が、彼の肩に重くのしかかっていた。
勘助もまた、腕を組んだまま深く唸った。
「俺の方も同じだ。人足として船に出入りしてみたが、聞こえてくるのは下っ端どもの愚痴ばかり。頭領の姿どころか、その気配すら感じられねえ。これじゃあ、軍師様に何一つ確かな報せを送れねえぞ」
焦りが、部屋の空気をじりじりと焼いていく。源次から与えられた任務は「敵を知る」こと。だが、その敵の顔が全く見えないのだ。
「一体、どんな鬼が棲んでやがるんでしょうな、あの砦には」
佐平が吐き捨てるように言った、その時だった。
勘助の脳裏に、昼間盗み聞きした海賊たちの、何気ない会話が稲妻のように蘇った。
――『頭領は、今宵も砦から一歩も出られんそうだ。「風が悪い」だの「星の巡りが良くない」だのと、理由をつけてな』
――『あれは、用心深すぎるんだよ。誰かに命を狙われてるとでも、本気で思ってやがる』
「……鬼、か」
勘助は、ぽつりと呟いた。
「佐平、あるいは俺たちは、見当違いをしていたのかもしれん」
「……へい?」
勘助は、卓の上にかすかに残っていた酒を指でなぞりながら、自らの思考を整理するように語り始めた。
「俺たちは、頭領がとんでもねえ豪傑だから、その姿が見えねえんだと思ってた。だが、逆だとしたらどうだ? 奴が姿を見せねえのは、強いからじゃねえ。むしろ……誰よりも臆病で、何かを恐れているからだとしたら?」
その言葉に、佐平の目がわずかに見開かれた。
「酒場で聞いた話を思い出せ」と勘助は続ける。「『十年前に弟分に裏切られた』。そして俺が聞いた話。『部下ですら信用せず、砦に引きこもっている』。……この二つを繋げると、一つの答えが見えてこねえか」
佐平の頭の中で、これまで集めた断片的な情報が、新たな意味を持って繋がり始めた。
「まさか……頭領は、また裏切られることを恐れている? 部下たちに、殺されることを……?」
「ああ。奴は恐怖で人を支配している。だが、その実、誰よりも恐怖に怯えているんだ。部下も、裏切りも、そして己の運命すらも。だから、砦という殻に閉じこもり、誰にも姿を見せない。……俺たちが探していた鬼の正体は、奴自身の心の中に棲む、『猜疑心』という名の鬼だったんだ」
その結論に達した瞬間、二人の間に走ったのは、戦慄だった。
そして、その戦慄はすぐに、悪魔的な笑みへと変わっていった。
「……へっ」と佐平が口の端を上げた。「つまり、軍師様が言っていた『恐怖の源を突け』ってのは、そういうことですかい。物理的に首を獲るんじゃなく、奴の心を殺せ、と」
「そうだ」と勘助の目が鋭く光った。「奴のその猜疑心を、さらに煽ってやるのさ。我らが、奴の心の内に潜む鬼を、もっと大きく育ててやるんだ」
それは、もはや単なる情報収集ではなかった。敵将の心理を巧みに操り、内部から自壊させるという、恐るべき心理戦への移行。それは、現場で得た情報に基づき、彼ら自身が導き出した、次なる戦術だった。
頭領の正体は、いまだ謎に包まれたまま。だが、その見えざる敵を打ち破るための、新たな、そしてより危険な戦いの道筋が、確かに見え始めていた。
彼らは、物理的な砦を攻めるのではなく、頭領の心の中にある「不信」という名の砦を、内側から突き崩す決意を固めたのだった。
この重要な分析と次なる行動計画を記した密書が、井伊谷にいる源次の元へ送られることになる。だが、その一報を届ける道が、これほどまでに過酷なものになるとは、この時の彼らはまだ知らなかった。