第26節『赤い鎧』
第26節『赤い鎧』
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「……はぁ、はぁ……もう、追っては来ねえだろう」
生き残った兵の一人が、木に背を預けながら息を吐いた。
周囲には、鬱蒼とした森。戦場から少し離れただけなのに、そこは別世界のように静まり返っていた。
誰もが肩で息をしながら、互いに顔を見合わせる。
安堵の色が、少しずつにじみ出していた。
「よう逃げきったな……源次殿のおかげだ」
「まったくだ。まさか訓練でやらされた、あの板切れの手盾に命を救われるとはな。当初は『槍働きには邪魔なだけだ』なんて文句も出たが……あんたは矢の雨が来るのを分かってたみてぇだ」
感謝の言葉と共に、改めて源次への信頼の視線が注がれる。
だが源次の表情だけは硬いままだった。
(……おかしい。鳥の声がしねえ)
森に逃げ込んでから、すでにしばらくが経っていた。
なのに、一羽の小鳥のさえずりも聞こえない。
草むらを駆ける兎や鹿の足音すら、微塵もなかった。
代わりに広がるのは――圧し掛かるような沈黙。
(これは……漁で獲物を追い込んでる時の静けさだ。網の影に気づいた魚が、ただ身を縮めて逃げ場を探す、あの時の……)
源次は顔を上げた。
木々の隙間から覗く薄暗がりを、じっと睨む。
「……重吉さん」
「ん?」
「まだいる。追手だ。さっきまでの雑兵とは違う……手練れが、俺たちを囲んでいる」
小声で囁いた瞬間、重吉の目が細くなった。
古参の戦士特有の直感が、同じ結論を告げているのだろう。
「……皆の者、油断するな」
低い声で放たれた言葉に、再び一同の背筋が凍る。
わずかな安堵は、瞬く間に消え失せた。
森は、あまりに静かすぎた。
その静寂こそが、殺気を孕んでいた。
最初に現れたのは、一人だった。
木陰から、ぬらりとにじみ出るように歩み出る。
鎧は血のように鮮烈な赤。
陽光を受けてなお、陰影に沈むその姿は、まるで夜の闇に揺れる炎のように異様だった。
続いて、二人、三人――。
四方の木立から、同じ赤をまとった兵が姿を現す。
合わせて十余名。
声も上げない。
鬨も上げない。
ただ静かに、呼吸を合わせたかのように一歩ずつ前へ進む。
「な、なんだありゃ……」
「赤備え……? 武田の、赤備えだってのか……?」
震える声が漏れる。
だが源次はすぐに理解した。
これは、ただの色揃えの兵ではない。
(……こいつら、全員が熟練者だ。槍の間合いも、歩幅も、寸分違わねえ……まるで、一つの生き物じゃねえか)
心臓が軋むように鳴った。
敵は雑兵ではない。
一人ひとりが、鍛え上げられた武芸者。
その集団が統率され、同じ呼吸で動いている。
これまでの戦場の混乱とは質が違う。
これは――精鋭。
「下がれ!」
源次の声と同時に、赤備えの槍が突き出された。
鋭い。
迷いがない。
一撃一撃が、まるで殺意の塊だった。
「くっ……!」
源次は訓練通りの動きで手盾を構え、槍を受けた。
だが、すぐさま別の兵が死角から斬りかかってくる。
受け止める間もなく、重吉が横から槍を払った。
「ぬうっ! この動き……ただの足軽じゃねえ!」
重吉の叫びが、場を震わせた。
一人が攻撃すれば、二人目がすぐ補い、三人目が死角を突く。
連携が淀みなく続き、流れるように攻め込んでくる。
これまで源次の知恵で凌げた連携は、あっけなく打ち砕かれた。
「ぎゃあっ!」
生存者の一人が恐怖に駆られ、背を向けて逃げ出した。
瞬間、赤備えの槍が閃き、背中を深々と貫いた。
血が吹き出し、男は声もなく崩れ落ちる。
「や、やべえ……もう駄目だ!」
「逃げろ、逃げろォ!」
残りの者たちの心が、みるみる崩れていく。
赤い鎧は、ただの武具の色ではなかった。
それは絶望の象徴だった。
「源次! このままじゃ皆殺しだ!」
重吉が歯を食いしばりながら叫ぶ。
額から血を流し、なお槍を振るっていた。
源次の脳裏で、戦場の図が組み上がる。
(こいつら……俺たちを殲滅するのが目的じゃねえ。囲んで、本隊から切り離して……狩るつもりだ! 地形を見る限り、追い込む先は……水辺か!)
漁師の勘が、敵の狙いを看破した。
これは戦ではない。
狩りだ。
「みんな、聞け!」
源次は叫んだ。
恐怖で散りかけた仲間の意識を、無理やり引き戻す。
「構うな! 逃げろ! ――川だ! 川に飛び込め!」
一瞬、誰もが耳を疑った。
だが次の瞬間、源次の必死の眼差しに押され、動き出す。
「い、いくぞ!」
「川へだ!」
赤備えが一斉に追う。
だがその連携の美しさこそが、わずかな隙を生んだ。
源次は最後尾に残り、手盾で槍を弾き飛ばす。
その衝撃で腕が痺れた。
骨が軋む音がした。
「うおおおお!」
雄叫びを上げて突き進み――。
次の瞬間、冷たい水が全身を打った。
ごうごうと流れる川。
濁流に呑まれ、もみくちゃにされながらも、必死に手足を動かす。
肺が潰れそうになり、視界が白く染まった。
やかて、必死にしがみついた流木に助けられ、どうにか対岸に打ち上げられる。
「げほっ……げほっ……!」
「生きて……るか……?」
ずぶ濡れの仲間たちが、泥にまみれながら息をついていた。
源次は顔を上げた。
対岸の森の向こう、赤備えの兵たちが立ち尽くしていた。
追っては来ない。
ただ静かに、こちらを見下ろしている。
その沈黙は、嘲笑よりも恐ろしかった。
「……なんだ、あれは」
重吉が呟いた。
声には、戦場を何度もくぐり抜けた男の、心底からの恐怖が滲んでいた。
源次は歯を噛みしめ、濡れた髪を振り払った。
(史実の赤備え……精強なのは知ってた。だが、これは……強すぎる。まるで……)
脳裏に、ある武将の戦いぶりが浮かぶ。
だが、すぐにその名を打ち消した。
そんなはずはない、と。
それでも違和感は消えなかった。
その違和感は、やがて大きな謎へと繋がっていく。
対岸に立ち尽くす赤備えの影を睨みながら、源次は震える胸を押さえた。
(あんな連中が……まだ他にもいるのか?)
冷たい水の滴る音が、答えの代わりに響いていた。