表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/300

第26節『赤い鎧』

第26節『赤い鎧』

 「……はぁ、はぁ……もう、追っては来ねえだろう」

 生き残った兵の一人が、木に背を預けながら息を吐いた。

 周囲には、鬱蒼とした森。戦場から少し離れただけなのに、そこは別世界のように静まり返っていた。

 誰もが肩で息をしながら、互いに顔を見合わせる。

 安堵の色が、少しずつにじみ出していた。

 「よう逃げきったな……源次殿のおかげだ」

 「まったくだ。まさか訓練でやらされた、あの板切れの手盾に命を救われるとはな。当初は『槍働きには邪魔なだけだ』なんて文句も出たが……あんたは矢の雨が来るのを分かってたみてぇだ」

 感謝の言葉と共に、改めて源次への信頼の視線が注がれる。

 だが源次の表情だけは硬いままだった。


 (……おかしい。鳥の声がしねえ)

 森に逃げ込んでから、すでにしばらくが経っていた。

 なのに、一羽の小鳥のさえずりも聞こえない。

 草むらを駆ける兎や鹿の足音すら、微塵もなかった。

 代わりに広がるのは――圧し掛かるような沈黙。

 (これは……漁で獲物を追い込んでる時の静けさだ。網の影に気づいた魚が、ただ身を縮めて逃げ場を探す、あの時の……)

 源次は顔を上げた。

 木々の隙間から覗く薄暗がりを、じっと睨む。


 「……重吉さん」

 「ん?」

 「まだいる。追手だ。さっきまでの雑兵とは違う……手練れが、俺たちを囲んでいる」

 小声で囁いた瞬間、重吉の目が細くなった。

 古参の戦士特有の直感が、同じ結論を告げているのだろう。

 「……皆の者、油断するな」

 低い声で放たれた言葉に、再び一同の背筋が凍る。

 わずかな安堵は、瞬く間に消え失せた。

 森は、あまりに静かすぎた。

 その静寂こそが、殺気を孕んでいた。


 最初に現れたのは、一人だった。

 木陰から、ぬらりとにじみ出るように歩み出る。

 鎧は血のように鮮烈な赤。

 陽光を受けてなお、陰影に沈むその姿は、まるで夜の闇に揺れる炎のように異様だった。

 続いて、二人、三人――。

 四方の木立から、同じ赤をまとった兵が姿を現す。

 合わせて十余名。

 声も上げない。

 鬨も上げない。

 ただ静かに、呼吸を合わせたかのように一歩ずつ前へ進む。

 「な、なんだありゃ……」

 「赤備え……? 武田の、赤備えだってのか……?」

 震える声が漏れる。

 だが源次はすぐに理解した。

 これは、ただの色揃えの兵ではない。


 (……こいつら、全員が熟練者だ。槍の間合いも、歩幅も、寸分違わねえ……まるで、一つの生き物じゃねえか)

 心臓が軋むように鳴った。

 敵は雑兵ではない。

 一人ひとりが、鍛え上げられた武芸者。

 その集団が統率され、同じ呼吸で動いている。

 これまでの戦場の混乱とは質が違う。

 これは――精鋭。


 「下がれ!」

 源次の声と同時に、赤備えの槍が突き出された。

 鋭い。

 迷いがない。

 一撃一撃が、まるで殺意の塊だった。

 「くっ……!」

 源次は訓練通りの動きで手盾を構え、槍を受けた。

 だが、すぐさま別の兵が死角から斬りかかってくる。

 受け止める間もなく、重吉が横から槍を払った。

 「ぬうっ! この動き……ただの足軽じゃねえ!」

 重吉の叫びが、場を震わせた。

 一人が攻撃すれば、二人目がすぐ補い、三人目が死角を突く。

 連携が淀みなく続き、流れるように攻め込んでくる。

 これまで源次の知恵で凌げた連携は、あっけなく打ち砕かれた。


 「ぎゃあっ!」

 生存者の一人が恐怖に駆られ、背を向けて逃げ出した。

 瞬間、赤備えの槍が閃き、背中を深々と貫いた。

 血が吹き出し、男は声もなく崩れ落ちる。

 「や、やべえ……もう駄目だ!」

 「逃げろ、逃げろォ!」

 残りの者たちの心が、みるみる崩れていく。

 赤い鎧は、ただの武具の色ではなかった。

 それは絶望の象徴だった。


 「源次! このままじゃ皆殺しだ!」

 重吉が歯を食いしばりながら叫ぶ。

 額から血を流し、なお槍を振るっていた。

 源次の脳裏で、戦場の図が組み上がる。

 (こいつら……俺たちを殲滅するのが目的じゃねえ。囲んで、本隊から切り離して……狩るつもりだ! 地形を見る限り、追い込む先は……水辺か!)

 漁師の勘が、敵の狙いを看破した。

 これは戦ではない。

 狩りだ。


 「みんな、聞け!」

 源次は叫んだ。

 恐怖で散りかけた仲間の意識を、無理やり引き戻す。

 「構うな! 逃げろ! ――川だ! 川に飛び込め!」

 一瞬、誰もが耳を疑った。

 だが次の瞬間、源次の必死の眼差しに押され、動き出す。

 「い、いくぞ!」

 「川へだ!」

 赤備えが一斉に追う。

 だがその連携の美しさこそが、わずかな隙を生んだ。

 源次は最後尾に残り、手盾で槍を弾き飛ばす。

 その衝撃で腕が痺れた。

 骨が軋む音がした。

 「うおおおお!」

 雄叫びを上げて突き進み――。

 次の瞬間、冷たい水が全身を打った。


 ごうごうと流れる川。

 濁流に呑まれ、もみくちゃにされながらも、必死に手足を動かす。

 肺が潰れそうになり、視界が白く染まった。

 やかて、必死にしがみついた流木に助けられ、どうにか対岸に打ち上げられる。

 「げほっ……げほっ……!」

 「生きて……るか……?」

 ずぶ濡れの仲間たちが、泥にまみれながら息をついていた。

 源次は顔を上げた。

 対岸の森の向こう、赤備えの兵たちが立ち尽くしていた。

 追っては来ない。

 ただ静かに、こちらを見下ろしている。

 その沈黙は、嘲笑よりも恐ろしかった。


 「……なんだ、あれは」

 重吉が呟いた。

 声には、戦場を何度もくぐり抜けた男の、心底からの恐怖が滲んでいた。

 源次は歯を噛みしめ、濡れた髪を振り払った。

 (史実の赤備え……精強なのは知ってた。だが、これは……強すぎる。まるで……)

 脳裏に、ある武将の戦いぶりが浮かぶ。

 だが、すぐにその名を打ち消した。

 そんなはずはない、と。

 それでも違和感は消えなかった。

 その違和感は、やがて大きな謎へと繋がっていく。

 対岸に立ち尽くす赤備えの影を睨みながら、源次は震える胸を押さえた。

 (あんな連中が……まだ他にもいるのか?)

 冷たい水の滴る音が、答えの代わりに響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ