第259節『酒場の情報、浜辺の噂』
第259節『酒場の情報、浜辺の噂』
酒場「千鳥」の暖簾をくぐった瞬間、むっとするような熱気と、むせ返るような匂いが二人を包み込んだ。
汗と埃、安酒の酸っぱい香り、そして魚のはらわたが腐敗したような生臭さ。それらが混じり合い、長年この場に染み付いた人間の欲望の匂いとなって、鼻腔を突き刺す。
店内は、昼間だというのに薄暗かった。障子には穴が開き、そこから差し込む光の筋が、舞い上がる埃をきらきらと照らし出している。煤で黒ずんだ梁の下では、十数人の男たちが床几や樽に腰を下ろし、賭け事に興じたり、大声で罵り合ったりしていた。その誰もが、一目で村櫛党の者と分かる、荒々しい気配をまとっている。
佐平と勘助が入ってきたことに気づくと、一瞬だけ、店内の喧騒が止んだ。
値踏みするような、鋭い視線が一斉に突き刺さる。よそ者に対する、あからさまな敵意と警戒。
だが、その視線を真正面から受け止めたのは、勘助ではなく佐平だった。彼は一瞬たりとも臆することなく、人の良い笑顔を顔に貼り付けると、腹の底から声を張り上げた。
「ごめんくださいよ! 旅のもんですが、一杯やらせてもらえませんか! いやあ、噂に違わぬ賑わいですな! さすがは村櫛湊!」
そのあまりに場違いなほど明るい声に、海賊たちの間に一瞬の戸惑いが走った。佐平はその隙を見逃さず、店の女将らしき老婆に近づくと、懐から銭を取り出した。
「婆さん! ここにいる兄貴たち全員に、一杯ずつおごらせてくれ! あっしからの挨拶代わりだ!」
その気前の良さに、海賊たちの顔から敵意がいくらか和らいだ。
「へっ、威勢のいいのが来たじゃねえか」
「どこのもんだか知らねえが、肝は据わってるらしいな」
佐平は、その囁き声を聞きながら、勘助と共に店の最も隅の、目立たない席へと腰を下ろした。
(よし、第一関門は突破だ。こいつら、単純で助かるぜ。少し持ち上げりゃ、すぐに気を許しやがる。だが、目が笑ってねえ奴もいる。油断は禁物だ)
佐平は、自らも酒を注文すると、隣の卓でサイコロを振っていた一団に近づいた。その中の一人が、ちょうど博打に負けて卓を叩き、悪態をついている。
「くそっ! また半か! やってられっか!」
「兄貴、ついてねえな。まあ、そんな日もある。一杯どうでえ? 俺の奢りだ」
佐平は、なみなみと注がれた杯を差し出した。男は訝しげに佐平を見上げたが、差し出された酒を断る理由はなかった。
「……おう、すまねえな」
その一杯をきっかけに、佐平は巧みな話術で相手の懐へと滑り込んでいった。
「いやあ、それにしても村櫛党は羽振りがいいねえ。あっしたちみたいな小商人とは大違いだ。これも全部、頭領の腕がいいからだろうな。さぞかし、気前のいいお方なんだろう」
おだてられ、酒も手伝って気分を良くした海賊は、饒舌に語り始めた。
「ったりめえよ! 俺たちの頭領は、ただの海賊とは格が違う! 鬼だ、鬼だぜ!」
「ほう、鬼ですか!」
「ああ。だがな……」と、海賊は急に声を潜めた。「……気難しくてかなわん。下手をすりゃ、身内でも容赦なく海に沈めちまう。俺たち下っ端は、いつ殺されるか分かったもんじゃねえのさ」
その言葉には、恐怖と同時に、日頃の鬱憤が滲んでいた。
(……不満分子、発見)
佐平は、内心でほくそ笑んだ。だが、表情には出さず、さらに同情的な声音で相槌を打つ。
「そりゃあ、大変だ。上に立つお方は、それくらい厳しくなくちゃいけねえのかもしれねえが、下につく者はたまらねえな」
その言葉が、海賊の心の琴線に触れたようだった。彼は、堰を切ったように不満を漏らし始めた。頭領がいかに気まぐれか、幹部たちがいかに横暴か。佐平は、ただ聞き役に徹しながら、その全てを記憶に刻みつけていく。
一方、勘助は、そのやり取りから少し離れた席で、黙って酒を飲んでいた。
彼は、佐平のように積極的に情報を引き出すのではない。ただ、そこにいるだけ。だが、その全身を耳と化し、店内に飛び交う全ての音を情報として拾い集めていた。
店主の老婆が常連客に漏らす愚痴。「またショバ代を上げろって言われてさあ、もうやってらんないよ」。
別の卓で、若い海賊たちが交わす自慢話。「この前の井伊の商人の船、赤子の手をひねるようだったぜ」「ああ、奴らは海を知らねえからな。潮の流れに逆らって逃げようとするんだから、笑っちまう」。
その何気ない会話の中に、井伊水軍の弱点と、村櫛党の戦い方のヒントが隠されていることを、勘助は見逃さなかった。
彼は、この酒場にいる人間関係の力学をも見抜こうとしていた。誰が実力者で、誰が不満を抱えているのか。誰と誰が繋がっていて、誰が孤立しているのか。
その時、勘助の耳に、店の隅で酒を運んでいた若い女中の、小さな囁き声が届いた。彼女は、勘定を払う地元の漁師に、そっと耳打ちしていた。
「……また、砦に呼ばれてるんだ。嫌で嫌で……」
「馬鹿、大きな声で言うな。聞かれたらどうする」
漁師は慌てて銭を置き、足早に店を出ていった。
勘助の目が、鋭く光った。
(砦……)
酒場の海賊が口にした「頭領」と、今聞こえた「砦」という言葉。二つのピースが、彼の頭の中で音を立てて繋がった。
その日の夕刻。勘助は佐平と別れ、一人で浜辺を歩いていた。
彼は、昼間の情報から目星をつけていた、網を繕う老漁師に近づくと、同業者として何気なく声をかけた。
「どうですかい、親方。近頃の漁は」
老漁師は、見知らぬ男に一瞬警戒の色を見せたが、勘助の手が、長年網を引いてきた者の節くれだった手であることを見て、少しだけ心を許したようだった。
「……見ての通りよ。獲れたところで、半分は奴らに持っていかれる」
「村櫛党ですかい。難儀なことですな」
勘助は、そう言って煙管を取り出し、火をつけた。そして、紫煙を吐き出しながら、ぽつりと呟く。
「奴らの本当の根城は、ここじゃねえと聞きましたが」
その言葉に、老漁師の手が止まった。彼は、鋭い目で周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると、声を潜めて答えた。
「……あんた、何者だ。そんなことを聞いて、どうする」
「ただの好奇心ですよ。あっしらのような流れ者には、どこに鬼が棲んでいるか知っておくことが、何よりの用心でしてね」
老漁師は、しばらく勘助の顔をじっと見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……あの岬の先よ。古い見張り台があったのを、奴らが砦に造り替えやがった。『村櫛砦』。あそこが、奴らの本当の巣だ。だが、近づくんじゃねえぞ。近づく者は、生きては帰れん」
その声は、長年恐怖に支配されてきた者の、魂からの警告だった。
その夜、潜入部隊が宿にしている安宿の一室。
勘助と佐平は、昼間に得たそれぞれの情報を持ち寄り、小さな灯火の下で照らし合わせていた。
「砦……やはり、奴らの本拠地は別にあるようだ」と勘助。
「頭領への不満も根深い。特に、古参の連中と、最近入った若者たちの間で、かなり軋轢があるようです」と佐平。
二つの重要なキーワードが浮かび上がった。
難攻不落の「砦」と、その内部に潜む「不満」という名の火種。
勘助は、粗末な紙の上に、記憶を頼りに港の地図を描きながら呟いた。
「砦の場所は分かった。だが、その中がどうなっているか分からねえことには、軍師様も策の立てようがねえ。……どうやって、あの砦の懐に潜り込むかだ」
新たな、そして最大の難問が、彼らの前に立ちはだかっていた。