第257節『潜入部隊の編成』
第257節『潜入部隊の編成』
軍議の天幕から出ると、夜の冷気が火照った頬を撫でた。
源次は、先ほどまでの議論の熱を冷ますように深く息を吸い込むと、兵たちが寝静まった拠点の一角へと足を向けた。そこには、彼の呼び出しに応じ、数人の男たちが息を殺して闇の中に佇んでいた。
彼らの服装はバラバラだった。井伊家譜代の兵士が着る簡素な具足をまとった者もいれば、権兵衛の配下である漁師らしい潮に焼けた着流しの者もいる。一見して、統率の取れた部隊とは思えない、雑多な集まりだった。
だが、彼らには共通点があった。それは、源次がこの数ヶ月、自らの目でその能力を見極め、選び抜いた者たちであるということだ。
源次は、彼らの前に立つと、軍師としての仮面を外し、一人の仲間として語りかけるように口を開いた。
「今宵、集まってもらったのは他でもない。お前たちに、この戦の勝敗を決する、最も重要な役目を託したいからだ」
その真摯な言葉に、男たちの間に緊張が走る。
源次はまず、権兵衛が「この男の右に出る操船の腕は、浜名湖にはおりません」と太鼓判を押した、勘助という名の初老の漁師の前に立った。彼は日に焼けた顔に深い皺を刻み、海の男特有の、全てを見透かすような静かな目をしていた。
「勘助殿。あなたには、この度の潜入部隊の隊長を任せたい」
勘助は驚きに目を見開いた。「軍師様、滅相もねえ。あっしのような者に、隊長など……」
「いや、あなたしかいない」と源次は静かに、しかし力強く言った。「聞けば、若い頃、まだ奴らがただの浜の衆だった頃には、村櫛党の船に乗り、奴らの縄張りで漁をしていたこともあるとか。この中で、誰よりも敵の海を知り、敵の気性を知る男。それがあなただ。あなたには、ただ潜入するだけでなく、部隊の者たちを生きて帰らせるという、最も重い役目を託したい」
その言葉は、勘助の漁師としての経験と誇りを、真正面から認めるものだった。勘助は、しばし黙して源次の目を見つめ返していたが、やて覚悟を決めたように、深く頷いた。
次に源次は、佐平という名の、まだ若い井伊の兵の前に立った。彼は槍働きこそ人並みだが、口が達者で、人を乗せるのが天下一品と評判の男だった。
「佐平。お前には、この部隊の『舌』となってもらう」
「……舌、でございますか?」
「そうだ。お前は、商人になりすまし、敵地の酒場で情報を引き出す。お前のその舌先三寸で、敵の懐に潜り込み、奴らの心を丸裸にしてこい。敵将の首を獲るよりも難しい役目だ。務まるか?」
佐平は、一瞬の緊張の後、にやりと不敵に笑った。
「へっ、お任せくだせえ、軍師様。どんな鬼の懐だろうと、この佐平の舌にかかれば、赤子同然にしてご覧にいれます」
その自信に満ちた答えに、源次は満足げに頷いた。
源次はさらに、小柄で目立たないが、一度見たものを決して忘れぬという驚異的な記憶力を持つ男、物音を立てずに獣のように動ける元猟師の男など、一人ひとりの前に立ち、その長所を的確に指摘しながら、それぞれの役割を与えていった。ある者には砦の見取り図を記憶する役目を、ある者には夜陰に紛れて敵船に近づき、その構造を確かめる役目を。
彼らは、源次が自分のこと、そして自分の持つささやかな能力を、これほどまでに正確に把握していたことに、驚きを隠せなかった。そして、その能力を「戦の重要な一部」として認めてくれたことに、静かな誇りを感じていた。
全員に役目を言い渡した後、源次は改めて彼らを見渡し、その声に重みを込めた。
「お前たちにはこれから、落ちぶれた行商人の一行になりすましてもらう。村櫛党の拠点に潜入し、奴らの船の数、兵の数、潮の流れ、そして砦の守りの全てを、その目と耳に焼き付けてこい」
彼は一度言葉を切り、男たちの顔を一人ひとり見つめた。
「だが、忘れるな。お前たちの働きこそが、この戦の勝敗を決する。しかし、手柄を焦って深入りすることは許さん。何よりも優先すべきは、情報を持ち帰ること。そして――」
源次の声が、ひときわ強くなった。
「――生きて、帰ってくることだ。お前たちが持ち帰る情報がなければ、我ら本隊は動けぬ。つまり、お前たちの命は、この井伊水軍全ての命に等しい。決して、無駄にはするな。生きて情報を持ち帰ることこそが、お前たちにとって最大の手柄だと心得よ」
その言葉は、集まった男たちの胸を強く打った。
この時代の将が、兵に命じるのは「死ぬ気で戦え」「手柄を立てよ」というのが常だった。「生きて帰れ」と、兵の命そのものを手柄としてくれる将など、彼らは聞いたこともなかった。
源次の内心は、複雑な思いで揺れていた。
(すまない。本当は、こんな危険な役目、誰にも押し付けたくはない。だが、お前たちの働きなくして、この戦には勝てない。俺は、お前たちが命がけで持ち帰るその情報で、必ず勝利の絵図を描いてみせる。だから……だから、死ぬなよ……! 一人でも欠けたら、俺は……!)
仲間を失うことへの恐怖。それを押し殺した。
勘助が進み出て、源次の前に深く頭を下げた。
「……軍師様。あっしたち海の民は、これまで侍様方から、戦の時だけ都合よく水夫として徴用される、ただの駒としてか見られてこなかった。じゃが、あんたは違う。あっしたち一人ひとりの顔を見て、その腕を信じ、そして『生きて帰れ』と言ってくださった。……そのお心、確かに受け取りやした。この命、軍師様に預けます。必ずや、ご期待に応えてご覧にいれます」
他の者たちも、それに続くように一斉に頭を垂れた。
そこにはもはや、出自の違う者たちの集まりという空気はなかった。ただ、同じ指揮官の下、同じ目的のために命を懸ける、一つの精鋭部隊が誕生していた。
彼らの背負う任務の重さと、それに伴う計り知れない危険。それが、月明かりもない完全な闇の中で、静かに、しかし確かに描かれていた。
源次は、彼らの覚悟をその目に焼き付けると、力強く頷いた。
井伊水軍の、最初の「刃」が、今まさに敵の心臓部へと放たれようとしていた。