第255節『源次の檄』
第255節『源次の檄』
篝火がぱちぱちと音を立て、火の粉を夜空へと舞い上げていた。
浜辺に集った井伊水軍の兵たちは、その炎の揺らめきを、自らの不安な心の映し鏡のように見つめていた。波の音が、絶え間なく寄せては返し、まるでこれから始まる戦の運命を予言するかのように不気味に響く。誰もが口を閉ざし、重い沈黙が陣営を支配していた。初陣への高揚感など、もはやどこにもない。あるのは、村櫛党という海の鬼への畏怖と、未知の海戦への恐怖だけだった。
その沈黙の輪の中心へ、源次が一人で静かに歩みを進めた。
彼は鎧も着けず、ただ腰に刀を差しただけの軽装だった。その落ち着き払った姿は、この絶望的な空気の中ではあまりに異質で、兵たちは思わず飯を食う手を止め、固唾をのんで彼を見守った。
この男が、我らを勝利に導くと主君が決断した軍師。だが、この絶望的な状況を、果たして本当に覆すことができるのか。全ての視線が、期待と疑念の入り混じった色を帯びて、源次ただ一人に注がれていた。
源次は、その視線を一身に受けながら、静かに口を開いた。
「皆の顔を見れば、何を恐れているか分かる」
声は穏やかだった。だが、その一言は不思議なほどよく通り、兵たちの耳に直接届いた。
彼はまず、海の民である権兵衛とその配下たちへと向き直った。彼らは、この中で最も村櫛党の恐ろしさを知る者たちだ。
「権兵衛殿。あんたたちは奴らを『海の鬼』だと言った。その通りだ。奴らは強い。この海を知り尽くしている賊だ。力任せにぶつかれば、我らに勝ち目はないだろう。だがな」
源次は、篝火の向こうに広がる黒い湖面を指さした。
「鬼は力こそ強いが、知恵はない。ただ荒れ狂うだけだ。満ち潮も引き潮も、風の向きも、全てを力でねじ伏せようとする。だが、海は力で支配できるほど、甘くはない。それを、あんたたち自身が一番よく知っているはずだ。我らは、鬼の力に知恵で抗う。潮を読む目、風を読む耳。それこそが、あんたたちが持つ最強の武器じゃないのか?」
権兵衛は、はっとしたように顔を上げた。源次の言葉は、彼らが抱いていた恐怖の根源――「力への畏怖」――を、彼ら自身の「誇り」へと巧みにすり替えてみせたのだ。そうだ、俺たちはただの漁師じゃない。この海と共に生きてきた、海の理を知る者たちなのだ、と。
次に、源次は新太と、彼が率いる元武田の兵たちへと視線を移した。彼らは、陸の戦いでは無敵の誇りを持ちながら、今は不得手な戦場を前に自信を失いかけている。
「新太。お前が鍛えた兵は強い。それは俺が誰よりも知っている。だが、お前たちの強さは、陸の上だけのものではないはずだ」
新太は、黙って源次の言葉を待った。
「お前たちが武田で学んだのは、ただ槍を振るう技術だけか? 違うだろう。魚鱗の陣、鶴翼の陣、組織として動き、互いを補い合い、一つの生き物のように戦う力。それこそが、お前たちの真の強さだ。その力は、戦場が土の上から水の上に変わったとて、決して色褪せはしない。むしろ、個々の力に頼る海賊ども相手だからこそ、お前たちの組織力は最強の刃となる。戦場が変わったのではない。お前たちの力が、試される舞台が変わっただけだ」
弥助をはじめとする元武田の兵たちの目に、光が戻った。そうだ、我らはただの兵ではない。戦国最強と謳われた武田の兵法を受け継ぐ者たちだ。その誇りが、彼らの胸に再び宿った。
そして最後に、源次は最も数の多い、井伊家譜代の山の兵たちを見渡した。彼らは、この中で最も海を知らず、最も恐怖に打ちひしがれていた。
「そして、井伊の兵たちよ。お前たちは、この中で最も弱いかもしれん。海を知らず、武田のような厳しい訓練も受けてこなかった。だが、お前たちには、彼らにはない最強の武器がある」
兵たちは、訝しげに顔を見合わせた。自分たちに、そんなものがあるというのか。
「それは『結束』だ」
源次の声が、静かな浜辺に響き渡った。
「お前たちは、同じ谷で生まれ、同じ釜の飯を食い、同じ主君に仕えている。先祖代々、この井伊谷を守るために、共に血を流してきた仲間だ。その絆の強さは、寄せ集めの海賊どもや、昨日まで敵だった者たちには決して真似できぬものだ。お前たちが心を一つにすれば、それはどんな屈強な肉体よりも硬い、最高の盾となる」
井伊の兵たちの胸が熱くなった。そうだ、俺たちは一人じゃない。この谷を守るという、同じ想いを共有する仲間がいるのだ。
源次は、三つの集団をゆっくりと見渡し、その声に確信を込めた。
「そうだ、奴らは強い。だがな」
彼は、再び湖の闇を指さした。
「奴らが知っているのは、力で流れに逆らう戦い方だけだ。我らは違う。我らには、権兵衛殿の『潮を読む目』がある。新太の率いる、最強の『槍』がある。そして、井伊の兵たちが作る、鉄壁の『盾』がある。知恵と、組織と、結束。この三つの力が一つになった時、我らはもはや寄せ集めの軍ではない。一つの、完璧な軍となる」
兵たちの呼吸が、いつしか一つになっていた。
源次の声が、彼らの魂を一つに束ねていく。
「奴らは流れに逆らうだけの賊。我らは、流れそのものに乗る軍団だ。この戦、勝つぞ!」
その言葉は、もはや単なる檄ではなかった。それは、兵たち一人ひとりの誇りを呼び覚まし、異なる力を一つの奔流へとまとめ上げる、軍師としての檄だった。
兵たちの目に、闘志の火が確かに灯った。恐怖に支配されていた顔が、決意の表情へと変わっていく。
だが、その炎はまだ脆かった。権兵衛配下の古参漁師の一人は、隣の仲間に「口じゃ何とでも言えるわい」と小さく吐き捨て、弥助もまた、部下たちにだけ聞こえる声で「今は軍師殿の言葉に従う。だが、奴らを完全に信用したわけではない。俺たちの背中は、俺たちで守るぞ」と囁いた。井伊の若武者も、隣の仲間と顔を見合わせ、「気迫はすげえ。だが、本当に漁師や元武田の連中と背中を合わせられるのか…」と不安を隠しきれずにいた。
彼らの心は、まだ完全には一つになっていない。だが、源次の言葉は、彼らの心に、共通の「目的」という名の火種を植え付けた。その火種がやがて大火となるか、それとも燻ったまま消えるのか。それは、これからの戦いにかかっている。陣営の空気は、敗戦ムードから、疑念と期待が入り混じった、新たな緊張感へと変わっていた。
その変化を確かめた源次は、静かに中野、新太、権兵衛を軍議の天幕へと促した。本当の戦は、ここから始まる。彼の描く、完璧な勝利の絵図を完成させるために。