第254節『初陣への緊張』
第254節『初陣への緊張』
井伊谷城から浜名湖畔に築かれた水軍拠点へと出陣命令が届いたのは、その日の夕刻のことだった。
伝令の早馬がもたらした「村櫛党討伐」の一報は、訓練に明け暮れていた兵たちの間に、一瞬の歓声と、しかしそれをすぐに呑み込むような、重い沈黙をもたらした。
夕陽が湖面を血の色に染め上げ、西の空には不吉なほどの茜色が広がっていた。風は凪ぎ、波の音だけがやけに大きく聞こえる。兵たちはそれぞれの持ち場に戻り、武具の手入れを始めたが、その手つきはどこかおぼつかなかった。祝田の谷での勝利の記憶はまだ新しい。だが、今度の敵は、あの時とは全く違う。
「……本当に、俺たちにできるのか」
井桁の紋が染め抜かれた陣幕の下で、井伊家譜代の山の兵たちが、不安げに顔を寄せ合っていた。彼らは、源次が考案した合理的な訓練によって、陸の兵としては見違えるほどの練度を身につけていた。だが、戦場は陸ではない。揺れる船の上だ。
「祝田では軍師殿の策があったから勝てた。だが、今度は海の上だぞ。足が震えて、槍を構えることすらままならんかもしれん」
「船酔いで吐いている間に、首を刎ねられるのが関の山だ……」
一人がそう呟くと、笑いは起きなかった。誰もが同じ恐怖を共有していたからだ。彼らにとって、海は未知の世界であり、ただただ畏怖の対象でしかなかった。
その不安は、海の民であるはずの権兵衛配下の漁師たちにとっても、決して他人事ではなかった。彼らは、新参の船大工たちが集う造船所の一角で、黙々と網の補修や銛先の手入れに没頭していた。
「……村櫛党、か」
権兵衛の最も信頼する手下の一人が、低い声で呻いた。
「親方。奴らは海の鬼だ。俺たちとは違う。奴らの操る小早船の速さは、まるで水面を飛ぶ鳥のようだ。俺たちの舟じゃ、奴らの速さには到底ついていけねえ。追いかけっこになったら、一方的にやられるだけだ」
「それに、奴らの縄張りは複雑怪奇だ。潮の流れも岩礁の場所も、俺たちですら全てを把握しちゃいねえ。下手に踏み込めば、戦う前に海の藻屑だ」
彼らは、村櫛党の恐ろしさを誰よりも知っていた。それは、ただ強いというだけではない。自分たちと同じ、いや、それ以上に海を知り尽くした者たちへの、同業者としての畏敬と恐怖だった。自分たちの技が、より優れた技の前では無力であるという現実を、彼らは痛いほど理解していた。
そして、この異質な軍団の中で最も精強であるはずの新太配下の元武田兵たちもまた、静かな緊張に包まれていた。彼らは、黙々と自らの武具を磨き上げ、いつでも戦える状態を保っている。その姿に怯えの色はない。だが、彼らが交わす言葉は、これまでのどの戦とも違う、戸惑いを含んでいた。
「海戦、か……」
部隊長である弥助が、槍の穂先を布で拭いながら呟いた。
「新太様の武勇は本物だ。それは疑いようがない。だが、海の上ではどうだ? 馬を駆ることも、陣を組んで駆けることもできぬ。我らが武田で培ってきた戦の全てが、ここでは役に立たぬやもしれん」
彼らは陸の戦のプロフェッショナルだった。だが、その専門性が高ければ高いほど、未知の戦場への不安は大きくなる。自分たちの最強の武器が、ここではただの鉄の塊になりかねない。その恐怖が、彼らの心を静かに蝕んでいた。
三者三様の不安。
山の民の、未知への恐怖。
海の民の、同業者への畏怖。
そして、陸の強者の、不得手な戦場への戸惑い。
それらの負の感情が、夕暮れの陣営にじわじわと伝染し、拠点全体が重苦しい敗戦前夜のような空気に包まれ始めていた。訓練で築き上げたはずの自信が、実戦という二文字の重圧の前に、脆くも揺らぎ始めていたのだ。
新太は、その空気を肌で感じ取り、苛立ちを隠せずにいた。
(兵たちが怯えている。俺がしっかりしなければ。だが……俺自身も、この海の戦にはまだ確信が持てない。槍働きには自信がある。だが、揺れる船の上で、どれほどの力が発揮できる? ましてや、部下たちを率いて、勝利に導くことができるのか……?)
指揮官としての責任と、未知の戦への不安が、彼の心を激しく苛んでいた。彼は、無意識に源次の姿を探していた。
(あの男は、何を考えているんだ……。この状況を、どう乗り切るつもりだ……?)
権兵衛もまた、造船所の櫓の上から、沈みゆく夕陽を眺めていた。
(源次は、俺たちを信じてくれた。その期待に応えたい。だが、相手が悪すぎる。奴らの操船術は神業だ。俺の仲間たちを犬死にさせるわけにはいかねえ。何か……何か手はあるはずだ。この絶望的な状況を覆す、あっと驚くような手が……)
彼は、あの漁対決で見せた、源次の人知を超えた「潮読み」の力を思い出していた。だが、あれは漁の話。殺し合いの戦場で、同じ奇跡が起こるとは限らない。
兵士たちは、無言で飯をかき込んでいた。だが、その味は誰にも分からなかっただろう。ある者は、故郷に残してきた家族を思って空を見上げ、ある者は、ただただ己の槍の穂先を見つめていた。
篝火がいくつも焚かれ、兵たちの不安げな顔を赤々と照らし出す。炎はぱちぱちと音を立てて爆ぜ、その火の粉が闇に吸い込まれていく様は、まるでこれから戦場で散っていくであろう兵たちの命を暗示しているかのようだった。
その重い空気の中心へと、源次が一人で静かに歩みを進めてくるのが見えた。
彼は鎧も着けず、ただいつものように腰に刀を差しただけの軽装だった。その落ち着き払った姿は、この絶望的な空気の中ではあまりに異質で、兵たちは思わず飯を食う手を止め、固唾をのんで彼を見守った。
彼が何を語るのか。
この沈みかけた舟を、再び浮上させる言葉を持っているのか。
陣営の全ての視線が、ただ一人、源次へと注がれていた。