第253節『直虎の決断』
第253節『直虎の決断』
評定の間は、重い沈黙に支配されていた。
中野直之が突きつけた「村櫛党」という名の分厚い壁。そのあまりに現実的で揺るぎない脅威の前に、先ほどまで若者たちの胸で燃え盛っていた戦意の炎は、まるで冷たい水を浴びせられたかのように勢いを失い、今はただ無力なくすぶりを上げるだけだった。
「徳川ですら……手を出せぬ、と……」
「であれば、我らのような小勢では、到底……」
囁き声が、絶望の響きを帯びて広間に広がる。家臣たちの意見は、いつしか「即時討伐」と「徳川の様子を窺うべき」という二つに割れていた。いや、正確には、「無謀な戦に打って出るか」あるいは「屈辱を飲んで何もしないか」という、どちらを選んでも未来のない袋小路へと迷い込んでいた。
「徳川殿に相談もせず動くのは、同盟違反となりかねぬ! まずは浜松へ使者を送り、御意向を伺うべきだ!」
文治派の老臣が、震える声でそう進言する。それは、最も穏健で、最も理に適った正論のように聞こえた。
だが、その言葉に若手の武士が噛みついた。
「使者を送っている間に、また別の商人が襲われたらどうするのです! 領民が目の前で襲われたのだ! 盟友の顔色を窺って動けぬなど、武士の恥にござる!」
二つの正論がぶつかり合い、議論は再び泥沼化していく。源次は末席でその光景を静かに見つめていた。彼の目には、この議論そのものが、すでに敵の術中にはまっているように見えていた。
(……駄目だ。彼らはまだ、陸の常識でしか物事を考えられていない。徳川に相談する? 徳川が失敗した相手に、徳川が助けの手を差し伸べるはずがない。結局は「井伊家だけで対処せよ」と言われるのが関の山。時間の無駄だ)
彼の思考は、すでにこの評定の遥か先、村櫛党との戦いの盤上にあった。
(この戦は、勝たねばならぬ。だが、ただ勝つだけでは意味がない。井伊水軍の力と価値を、内外に、特に徳川に示さなければならない。これは、井伊家が次のステージへ上がるための、最大の好機なのだ)
議論が紛糾する中、上座に座す直虎は、ただ目を閉じていた。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、家臣たちの怒号ではない。先ほど門前で見た、商人たちの涙に濡れた顔だった。夫を殺され、荷を奪われ、それでも井伊家を頼って助けを求めてきた、名もなき民の姿。
(ここで領民を見捨てれば、私は領主失格だ)
彼女の胸に、その思いが深く突き刺さる。
(源次が示してくれた、民と共に国を富ませるという道。その根幹が、今まさに試されている。民の信頼なくして、井伊の未来などあり得ないのだ)
彼女は、自らの心の奥底で、もう一つの声を聴いていた。それは、この評定の誰にも聞こえぬ、源次の声だった。
――『流れそのものに乗る術を知っている。恐れるな。浜名湖なら勝つのは我らだ』
浜辺で兵たちに檄を飛ばしたという言葉。伝令から報告を受けた時、彼女の胸は震えた。あの男は、すでにこの戦であればきっと勝ち筋が見えている。
(ならば、私が迷うてどうする)
直虎は、そっと目を開いた。
その瞳には、もはや一片の揺らぎもなかった。
彼女は、膝の上に置いていた扇を閉じると、ぱん、と乾いた音を立てて畳に置いた。
その小さな音に、広間を支配していた全ての怒号とざわめきが、まるで魔法のようにぴたりと止んだ。家臣たちは、はっとしたように口をつぐみ、一斉に主君へと視線を向ける。
「――わらわの意は、決した」
声は静かだった。だが、鋼のような響きが、広間の隅々にまで染み渡った。
「井伊水軍に、初陣を命じる。村櫛党を討伐し、浜名湖の安寧を取り戻すのだ!」
家臣たちが息を呑む。
中野直之ですら、そのあまりに大胆な決断に「殿、それはあまりに無謀にございます……!」と、思わず声を上げた。
だが、直虎はそれを手で制した。彼女の視線は、もはや家臣たちを見てはいなかった。ただ一人、末席に座す男の目を、真っ直ぐに射抜いていた。
「源次」
「はっ」
源次は、その声に応え、静かに立ち上がった。
「そなたが創り上げた、我らの新しい力。その真価を、わらわに見せてみよ。この戦、そなたに一任する」
その言葉は、命令であった。だが同時に、この場の誰よりも深く、源次の才を信じているという、絶対的な信頼の表明でもあった。
若者たちの目に、再び闘志の火が灯った。老臣たちは、領主の覚悟を前にして、もはや反対の言葉を口にすることはできなかった。中野直之は、唇を噛みしめ、ただ主君の顔を見つめていた。彼の目には、無謀な決断への反発と、それでもなお主君に従わねばならぬという武士としての葛藤が、複雑に渦巻いていた。
源次は、その全てを受け止めた上で、深々と頭を垂れた。
(……俺に、賭けてくれた。直虎様……! あなたのその決断、絶対に無駄にはしない!)
彼は、自らが創り上げた水軍と、それを信じてくれた主君への責任の重さに、武者震いを覚えた。これは、ただの初陣ではない。この井伊谷の、そして何より敬愛する主君の未来の全てを賭けた、大いなる一戦なのだ。
「御意」
絞り出すように発したその一言は、これまでのどの言葉よりも重く、評定の間に響き渡った。
家臣たちの驚愕と不安、そして源次の燃えるような決意の眼差しが交錯する中で、井伊家の運命は、新たな、そして最も危険な航路へと、大きく舵を切ったのだった。
その重圧が、広間全体を支配していた。