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第252節『村櫛党という壁』

第252節『村櫛党という壁』

 評定の間には、井伊家の存亡がかかる議題の時特有の、張り詰めた空気が満ちていた。

 先ほどまで城下を満たしていた穏やかな秋の日差しは、厚い障子に遮られ、広間には届かない。代わりに蝋燭の炎がいくつも焚かれ、その揺らめく光が、集った家臣たちの険しい横顔を壁に映し出していた。誰もが、先ほど大手門前で目撃した商人たちの無残な姿と、その口から語られた村櫛党の非道を、胸に重く刻みつけていた。


 上座に座す井伊直虎の表情は、能面のように固く、一切の感情を読み取らせない。だが、その膝の上で固く握りしめられた扇の骨が、ぎしり、と微かな音を立てた。彼女の内心で燃え盛る怒りと、領主としての冷静さを保とうとする葛藤の現れだった。

 その静寂を破ったのは、祝田の谷の戦いで源次の策の有効性を目の当たりにした、若手の武士の一人だった。先の勝利で得た自信が、彼の声を力強く後押ししていた。


「申し上げます! 村櫛党の非道、断じて許すべからず! 我らには今や、軍師・源次殿が鍛え上げた精鋭と、祝田の谷で武田を退けたという武威がございます! ただちに兵を出し、海賊どもを討伐すべきと存じます!」


 その血気盛んな言葉に、他の若手家臣たちも次々と同調の声を上げた。

「左様! 領民が目の前で襲われたのですぞ! 我らが動かずして、誰が井伊の民を守るというのか!」

「井伊水軍の初陣、これ以上の舞台はありますまい! 奴らの首級を挙げ、我らの力を天下に示しましょうぞ!」

 広間は一気に熱を帯び、主戦論が渦を巻く。その熱は、先の勝利がもたらした自信と、目の前で民が受けた屈辱への義憤がないまぜになった、純粋なものだった。


 源次は末席に控え、その光景を冷静に見つめていた。

(……士気が高いのは良いことだ。だが、相手を見誤っている。これはただの海賊退治じゃない)

 彼は、この熱狂が危険なものに変わる前に、誰かが冷や水を浴びせなければならないと感じていた。だが、その役目は自分ではない。自分がここで慎重論を唱えれば、「臆病風に吹かれたか」と、せっかく高まった士気に水を差すだけになってしまう。

(誰か……この場の空気を読める、重しとなる人物は……)

 源次の視線が、静かに座す二人の男へと向けられた。一人は、井伊家の武の象徴、中野直之。もう一人は、井伊家の財政を預かる現実主義者、小野政次。


 果たして、その沈黙を破ったのは小野政次だった。彼は、熱狂する若者たちを一瞥すると、まるで氷を投げ込むかのように、冷ややかに口を開いた。

「……口で言うは易し。若者たちの血気は頼もしいが、戦は気概だけではできませぬぞ」

 そろばんを弾くように、彼の指がかすかに動く。

「相手は、ただの海賊ではありませぬ。村櫛党に手を出すということは、井伊の生命線そのものを危険に晒すこと。採算が、まるで合いませぬ」

 「採算」という、武士の誉れとは最も遠い言葉に、若者たちの顔が侮蔑の色に染まる。「小野殿! これは銭勘定の話ではござらん!」


 だが、その若者たちの反論を、さらに重い声が制した。

「政次の言う通りだ」

 中野直之だった。彼は腕を組み、苦々しい表情で広間を見渡した。彼の言葉は、若者たちの熱狂を鎮めるには十分すぎる重みを持っていた。

「皆、浮かれておるようだが、相手を侮るな。村櫛党は、我らが祝田の谷で戦った武田の兵とは、全く質の違う敵だ」


 中野はゆっくりと立ち上がると、地図の前に進み出た。彼の指が、浜名湖の西岸、複雑に入り組んだ村櫛半島を力強く叩いた。

「奴らは、この地を根城とする海の地侍。単なる略奪者ではない。三河湾から遠州灘に至る水運の要所を抑え、そこを通るすべての船から上納金を巻き上げ、莫大な富を築いておる。その力は、我らのような小国衆を遥かに凌ぐ」

 彼は一度言葉を切り、さらに重い事実を突きつけた。


「そして何より厄介なのは、奴らが同盟する徳川家ですら手を出せぬ存在であるということだ」


 その一言に、広間は水を打ったように静まり返った。

「徳川でも敵わぬのか……?」

 若手の一人が、信じられないという声で呟く。

 中野は頷いた。「そうだ。徳川殿は、三河統一の後、水軍の創設を急がれた。その際、村櫛党にも協力を求めたが、奴らは『我らは誰の指図も受けぬ』と一蹴した。業を煮やした徳川様が討伐軍を送ったこともあるが……」

 彼は、まるで忌まわしい記憶を呼び覚ますかのように、目を細めた。

「……完敗であったそうだ。奴らは地の利を知り尽くしている。複雑な岩礁地帯に徳川方の船団を誘い込み、潮流の速い海峡で身動きを取れなくさせ、一方的に火矢を浴びせて焼き払ったと聞く。以来、徳川殿も村櫛党には下手に手を出せず、黙認せざるを得ない状況が続いている」


 評定の間は、完全な沈黙に包まれた。

 あの徳川家康ですら手を焼く難敵。その事実が、先ほどまでの熱狂を急速に冷却させていく。

「我らのような山の兵が、何の準備もなく下手に手を出せば、返り討ちは必定。創設したばかりの井伊水軍も、まだ訓練中の赤子の集まりよ。村櫛党との全面戦争となれば、我らに勝ち目はない」

 中野の言葉は、揺るぎない現実として、家臣たちの胸に重くのしかかった。


 源次は、そのやり取りを静かに見つめていた。

(その通りだな。村櫛党は単なる海賊ではなく、独立した在地豪族だ。徳川も手を焼いた。……だが、だからこそ価値がある)

 彼の頭の中では、すでに別の計算が始まっていた。

(徳川が失敗した相手を、我らが打ち破ればどうなる? 井伊水軍の名は一気に轟き、徳川からもまた一目置かれる存在になる。これはリスクではない。井伊家が、同盟とはいえ対等とは言えぬ徳川庇護下の小国から、真に対等な盟友へと飛躍するための、絶好の『投資』だ)

 彼は冷静に、リスクとリターンを天秤にかけていた。そして、そのリターンの大きさに、武者震いを覚えていた。


 議論は完全に振り出しに戻った。

 討伐か、静観か。

 家臣たちは、中野が突きつけた厳しい現実の前に、再び答えを失っていた。誰もが、軽々しく「戦うべし」とは言えなくなってしまったのだ。

 全ての視線が、再び上座で沈黙を守る領主・井伊直虎へと注がれる。彼女の決断一つに、井伊家の、そして創設されたばかりの井伊水軍の未来の全てが懸かっていた。

 その重圧が、蝋燭の炎を揺らす空気よりもなお重く、評定の間に満ちていた。

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