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第251節『商人たちの悲鳴』

第251節『商人たちの悲鳴』

 浜名湖での大規模演習から数日後。軍師としての役目を一旦終えた源次は、再び近侍として井伊谷城に戻っていた。城下は秋の収穫を終え、穏やかな活気に満ちている。昼下がりの市では人々の笑い声が絶えず、子供たちが犬を追いかけ回していた。源次は、城壁の上からその光景を見下ろし、胸に温かい充足感を覚えていた。


(……いい光景だ。直虎様……。あなたが望んだのは、きっとこういう景色だったはずだ。この笑顔を、俺が必ず守り抜いてみせる)


 その誓いを新たにした、まさにその時だった。市の喧騒を突き破るように、悲鳴にも似た叫び声が街道の先から響いた。穏やかだった空気が、一瞬で張り詰める。

 街道の土煙の向こうから、数人の男たちが、まるで亡霊のように現れた。着物は潮で濡れそぼり、額からは血を流し、顔は恐怖と絶望で歪んでいる。


「止まれ! 何者だ!」

 大手門を守る門番が槍を交差させるが、男たちはもはや立つ力も残っていなかった。先頭の男が、門番の足元に崩れ落ちる。

「お助け……くだされ……! 船が……我らの船が……!」

 絞り出すような声が、静まり返った城下に響いた。騒ぎを聞きつけた中野直之と、その背後にいた源次が駆けつけてくる。


「何事だ!」

 中野の雷鳴のような声に、商人たちの代表と思しき男が、這うようにして彼の鎧の裾にすがりついた。男の手は小刻みに震え、その目には正視できぬほどの恐怖が宿っている。

村櫛党むらくしとうです! 奴らです! 浜名湖で塩を運んでおりましたところ、村櫛党の船団に囲まれ……!」

 村櫛党――その名が出た瞬間、周囲で聞いていた領民たちの顔から、さっと血の気が引いた。

「船を焼かれ……荷をすべて奪われました! 一年かけて蓄えた塩が、目の前で湖に沈められ……!」

 男の言葉は嗚咽に変わり、もはや意味をなさなかった。別の若い商人が、震える声でその先を継ぐ。

「仲間は……抵抗した仲間は, 逆さ吊りにされて海に沈められました……! 奴らは笑いながら……ううっ」


 源次は、その光景を黙って見つめていた。書物の上で幾度となく目にしてきた「海賊行為」という乾いた四文字。それが今、血と涙と恐怖を伴った、生々しい現実として目の前に突きつけられている。

 彼は、商人たちの震える手、絶望に満ちた目を見て、胸の奥に冷たい怒りが宿るのを感じていた。理不-尽な暴力によって、名もなき人々のささやかな日常が踏みにじられたことへの、一個の人間としての、純粋な憤りだった。

(許せない。この涙を、あの人の領地で流させるわけにはいかない)


 だが、その燃え盛る感情のさらに奥深くで、軍師としての彼の脳は、氷のように冷徹な計算を始めていた。

(村櫛党……! 来たか。俺が狙おうとしていた、井伊水軍の初陣の相手が、向こうから牙を剥いてきた。……しかし、なんというタイミングだ。水軍はまだ組織されたばかり。兵たちの連携も、船の習熟も、まだ完璧とは言い難い。実戦は早すぎるか? 下手をすれば、初陣が壊滅という最悪の結果も……)

 一瞬、彼の胸を危険信号が駆け巡る。だが、その思考はすぐに別の可能性によって上書きされた。

(いや、違う。むしろ、今しかない。武田は冬を前に甲斐へ引き、徳川も先の戦で疲弊している。この地域の力の空白は、今この瞬間が最大だ。そして何より、商人たちがこうして駆け込んできたことで、我らには『領民を守る』という、誰にも文句のつけようがない大義名分が立った。これは吉か凶か……いや、これは紛れもない好機! 時間がない今、この絶好のチャンスを逃す手はない!)


 中野直之の顔は、武人としての強い怒りで赤く染まっていた。

「……すぐに評定を開く! 源次殿、参られよ!」

 中野が叫ぶ。その声は、怒りで震えていた。

 源次は、泣き崩れる商人たちに静かに一礼すると、決意を秘めた目で頷き返した。


 井伊谷の平穏は、あまりにも脆かった。新たな、そしてこれまでとは全く質の違う戦の影が、早くもこの谷を覆い始めていた。その影は、陸からではなく、彼らがまだ知らぬ、広大な湖の向こうから忍び寄ってきていたのだ。源次は、これから始まる戦いの大きさと、自らが創り上げた井伊水軍に課せられた責任の重さを、改めて痛感していた。彼の視線は、評定の間へと続く城の奥を、鋭く見据えていた。

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