第250節『演習の終わり』
第250節『演習の終わり』
直虎が視察に訪れた演習は、井伊水軍の圧倒的な練度を内外に示す形で、大成功に終わった。丘の上で視察していた直虎と家臣たちは、満足げな表情で井伊谷へと帰還していく。その背中を見送りながら、源次は確かな手応えを感じていた。組織は形になり、兵たちの士気も最高潮に達している。
浜辺には、戦勝後のような、明るく弛緩した空気が漂っていた。権兵衛が「見事なもんだったぜ、軍師様。今夜は祝い酒だ!」と豪快に笑い、樽を叩く。新太もまた、厳しい訓練を終えた兵たちを労い、その輪に加わっている。焚き火がいくつも焚かれ、獲れた魚が焼ける香ばしい匂いが立ち込めていた。
「見たか、新太様の突撃を!」「権兵衛親方の操船こそ神業よ!」
兵たちは出自の垣根を越え、互いの武勇を称え合い、酒を酌み交わしている。その光景は、源次が創りたかった「一つの軍」が、確かにここに誕生したことを示していた。
源次は、その熱狂の輪から少しだけ離れ、一人、夕暮れの湖面を眺めていた。茜色に染まる波が、寄せては返す。その穏やかな光景を見つめながら、彼の思考はすでに次の段階へと移っていた。
(……いつでも行ける。だが、最初の戦は重要だ)
彼の脳裏には、三段階に連なる壮大な海図が描かれていた。
第一に、当面の目標。それは、この浜名湖という内なる海を完全に平定することだ。徳川ですら手を焼くという村櫛党のような水賊を討伐し、交易路の安全を確保する。それができなければ、井伊谷の背後の安全も、これから始まる富国強兵策も、全てが絵に描いた餅で終わる。この育て上げた力を内外に示すためにも、格好の相手だった。
そして、その先にある第二の目標。それは外海――遠州灘の制海権の確立だ。ここを押さえれば、尾張や伊勢との交易が本格化し、井伊家は莫大な富を得ることができる。徳川にとっての海上補給路としての価値も、絶対的なものになるだろう。そうなれば、井伊家はもはや守られるだけの小国ではない。徳川と対等な盟友として、渡り合える。
(そのためには、今の改良和船だけでは足りない。いずれは、もっと大きく、強力な船が必要になる……)
そのための布石を、今から打っておかねばならない。
そして最後に、彼の心の最も深い場所にある、ぼんやりとした夢。
(いつか……本当に泰平の世が来たなら、この船団は戦のためではなく、未知なる世界へ向かうためのものになるかもしれない。直虎様は、海の向こうに何があるのか、きっと興味を持たれるはずだ。その時、俺が造った船で、あの人を世界の果てまで連れて行ってさしあげたい。……いやいや、何を考えてるんだ俺は。今はまだ、夢物語だな)
思わず苦笑が漏れる。だが、その夢こそが、彼の全ての行動の原動力だった。
今はただ、この勝利の余韻と、仲間たちの笑顔を静かに見守る。井伊水軍の本当の物語が始まる前の、束の間の、そしてかけがえのない平穏な時間が、浜名湖の夕凪の中に流れていった。