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第25節『死地からの生還』

第25節『死地からの生還』

 矢の雨が、ぴたりと止んだ。

 その静寂は救いではなかった。

 むしろ、恐怖を倍加させる鐘の音のように、源次の耳に響いた。

 谷底を埋め尽くしていた井伊の赤備えは、もはや見る影もない。

 無数の屍と呻き声が、そこかしこに散乱している。

 だが、敵はまだ満足していない。


 「……来るぞ」

 源次の呟きとほぼ同時に、木立の上から鬨の声が降り注いだ。

 「掃け! 残り一人たりとも逃すな!」

 伏兵の足軽たちが、弓を捨て、槍や刀を手に谷底へ雪崩れ込んでくる。

 逃げ場のない死地を、ゆっくりと蓋していく獣の群れのように。


 「ひ、ひぃ……!」

 「う、嘘だろ……もう駄目だ……」

 重吉の周りに集まっていた数名の生存者たちが、声を失って後ずさる。

 泣き出す者、槍を取り落とす者。

 絶望が波のように押し寄せ、誰もが沈もうとしていた。


 だが――源次の頭は異様なほどに冴え渡っていた。

 (史実では、井伊軍はここで壊滅した。追撃の主力は西の谷筋からだったはずだ。ならば敵兵の多くもそちらへ向かう。つまり――!)

 心臓は恐怖で破裂しそうだったが、その奥で冷静な分析が道を拓いていた。

 (東の斜面はまだ手薄なはずだ……! 生き残る道は、そこしかない!)


 「西は駄目だ!」

 源次は叫んだ。

 声が震えているのを悟られまいと、必死に張り上げる。

 「東へ抜けるぞ! 俺に続け!」


 生存者たちは目を剥いた。

 漁師上がりの足軽に過ぎぬ男が、まるで大将のように指示を下す。

 一瞬の逡巡が走ったが、重吉が吼えた。

 「聞いたな! 源次に従え! ここで死ぬよりゃマシだ!」

 その一言が、迷いを押し流した。


 「お、おう!」

 「源次、頼む!」

 足軽たちは半ば縋るように、源次の背に身を預けた。

 谷底を駆ける。

 乱戦はすでに始まっていた。


 「止まれ!」

 源次は、前方の大岩を指差した。彼の耳が、谷に反響する不規則な蹄の音を捉えていた。

 (一つじゃない。だが大群でもない。統制の取れた、少数の追手……斥候か! この時代の追撃部隊の定石なら、三騎一組が最も効率的だ!)

 遠くの土煙の立ち方が、それを裏付けていた。

 「三騎来る……! あの岩陰でやり過ごせ!」


 「はぁ!? 何で分かる――」

 訝しむ声が上がった刹那、馬上の敵兵三人が土煙を巻き上げて駆け抜けていった。

 岩陰に伏せていた源次たちの鼻先をかすめる距離。

 「……なっ」

 「本当に来やがった……」

 動揺と驚愕が兵たちを縫う。

 だが源次は振り返らない。


 「今だ、動け!」

 息を合わせ、再び走る。

 やがて、一体の敵兵と正面からぶつかった。

 「殺せ!」

 槍が突き出される。その瞬間、源次の目は敵の足元、不安定な砂利地盤を捉えていた。

 (槍の間合いで勝負するのは愚策だ。崩すなら足元!)

 源次は一歩引き、地面の石を素早く拾い上げた。漁で投網の重りを投げる要領で、腰を落として石を放つ。

 「うっ!」

 石は敵兵の足首を正確に砕き、よろめかせた。その隙に重吉が槍で突き崩し、別の兵が止めを刺す。


 「お、おお……!」

 それは武士の戦いではなかった。あくまで「狩り」。

 さらに別の敵兵が刀を振りかぶる。大振りだ。懐ががら空きになるのが見えた。

 (斬り結ぶな。重心を崩せ!)

 源次は躊躇なく身を低くし、漁師が荒波の中で船べりに体を固定する時のように、重心を低く保ち、敵の脇腹に肩から突っ込んだ。

 体勢を崩した敵は、岩肌に叩きつけられ、そこを槍が貫いた。


 「すげぇ……!」

 「源次の言う通りにすりゃ……勝てる……!」

 次第に、生存者たちは連携を取り始める。

 源次が地形と敵の動きを読み切って指示を出し、重吉が声を張り上げ、それに従って槍の穂先が一斉に突き出される。

 無秩序だった群れが、一つの生き物として機能し始めた。


 「藪に二人隠れろ! 合図で背を突け!」

 「おうっ!」

 「そこは狭い、槍を横に構えろ! 通り道を塞げ!」

 「了解だ!」


 戦場の地形を読み切る漁師の眼と、未来を知る異邦人の分析能力。

 それが融合した瞬間だった。

 幾度となく死地を潜り抜け、ついに東の斜面へ辿り着いた。

 木々の陰に身を隠すと、敵兵の怒声も次第に遠ざかっていく。


 「……はぁ、はぁ……」

 全員が、荒い息を吐きながらその場に崩れ落ちた。

 誰もが生きていることが信じられず、ただ呆然と互いの顔を見合う。

 やがて、重吉が源次の前に膝をついた。

 「……源次」

 声は震えていたが、それは恐怖からではなかった。

 尊敬と困惑の入り混じった響きだった。

 「お前さん……一体何者だ。なぜ敵の動きが、地形が、そこまで読めた」

 その問いに、他の生存者たちも一斉に目を向けた。

 皆、源次を信じたい。

 だが、その常人離れした能力を信じ切れない。

 そんな視線だった。


 源次は、息を整えながら答えを選んだ。

 (……未来から来たなんて言えるかよ)

 「……勘だよ」

 短く、吐き捨てるように言った。

 「魚の群れと同じだ。潮の流れや岩礁の形を読めば、次にどう動くかは大体分かる」


 沈黙が落ちた。

 誰もその言葉を鵜呑みにしてはいない。

 だが、誰も追及できなかった。

 命を救われたという事実と、先ほどの戦いでの彼の動きが、その言葉に奇妙な説得力を持たせていたからだ。

 ただ、彼らの目が変わった。

 尊敬。畏怖。そして、言葉にできない違和。

 その全てを受け止めながら、源次は崩れ落ちた井伊軍本隊の方角を見つめていた。


 (まだ……終わってねぇ)

 谷底を覆う血の臭いと、遠くから響く鬨の声。

 そのすべてが、次なる戦いの予兆だった。

 源次の最初の戦いは、ここから始まろうとしていた。

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