第249節『直虎の視察』
第249節『直虎の視察』
後日、直虎が、中野直之や小野政次を伴い、その完成した船団の演習を正式に視察に訪れた。丘の上に幔幕が張られ、日の光を浴びて輝く井桁紋の旗印のもと、井伊直虎は家臣たちと共に座していた。彼女は、湖上で繰り広げられる井伊水軍の演習を、その目に焼き付けるために訪れたのだ。
「放て!」
旗艦「竜神丸」の櫓の上から、源次の号令が響く。
その声に応え、船団から火矢が一斉に放たれ、湖上に浮かべた的を見事に射抜いた。その正確さと統率された動きに、初めて見る家臣たちから「おお…」と感嘆の声が漏れる。
続いて、船団は一糸乱れぬ動きで鶴翼の陣形を取り、仮想敵船を包囲する。そして、新太率いる兵たちが鬨の声を上げ、縄梯子を巧みに使いながら次々と敵船(と想定した舟)に乗り込んで制圧していく。その動きは荒々しくも統率が取れており、まさしく「水軍」と呼ぶにふさわしい、精強な部隊の姿だった。
「……見事なものじゃ」
直虎の口から、感嘆の吐息が漏れた。あの日の評定で、夢物語だと思われた構想が、今、現実となって目の前に広がっている。
隣に座す中野直之も、深く頷いた。
「直虎様。ご覧ください。あれが、源次殿が創り上げた、我らの新しい力にございます」
その声には、もはや驚きではなく、自軍の力を誇る総大将としての、確かな自負がこもっていた。
小野政次は、その光景に言葉を失っていた。彼は、この水軍がもたらすであろう「富」の大きさを、改めて計算し直し、武者震いを覚えていた。
直虎は、幔幕の中から立ち上がり、源次が指揮を執る竜神丸を、じっと見つめた。
(これが、源次の言う『海の道』か…陸の戦に明け暮れていた我らには思いもよらぬ力。だが、この力は井伊を次の世へ運ぶ舟となるか、それとも徳川という大河に飲み込まれるだけの小舟となるか…)
彼女は、源次の力が大きくなることに、誇らしさと同時に、領主としての一抹の不安を感じ始めていた。
(いや……何を弱気になっておる、わらわは。この男を信じると決めたではないか。この力で、井伊谷を守り抜くのだ。この男と共に)
彼女は自らを叱咤するように、きりりと表情を引き締めた。
その横顔を、源次は遠眼鏡越しに捉えていた。
(……まずい。これはまずい)
彼の心臓が、軍議の時とは全く違う種類の緊張で、早鐘を打ち始めた。
(推しが……直虎様が、あんな場所から俺の仕事を見てくださっている……! 尊すぎる! 俺の心臓が持たない……!)
内心で荒れ狂う感情の嵐を、彼は軍師としての冷静な仮面の下に必死で押し殺す。
(……落ち着け、俺。直虎様も、領主としてこの力の行く末を案じておられるんだ。俺は、その不安を拭い去ってさしあげなければならない。この力は、必ずあなたを守るためのものだと、結果で示さなくては)
彼は深く息を吸い込み、爆発しそうな感情を理性でねじ伏せた。
演習は成功裏に終わり、直虎と家臣たちは満足げな表情で井伊谷へと帰還していった。湖畔には、確かな手応えと、次なる段階への期待感が残された。その平穏な夕暮れの数日後、井伊水軍の真価が問われる最初の報せが、井伊谷にもたらされることになる。