第247節『海上演習』
第247節『海上演習』
井桁の旗が全ての船に掲げられた日、浜名湖で、井伊水軍にとって初めてとなる本格的な艦隊行動演習が行われた。湖畔の丘には、この歴史的な瞬間を見届けようと、中野直之をはじめとする井伊家の家臣だけでなく、多くの領民たちまでが集まっていた。彼らにとって、自分たちの納めた年貢や、差し出した労力が、どのような形になったのかをその目で確かめる、重要な日でもあった。秋晴れの空の下、湖面は穏やかに輝き、絶好の演習日和となった。
旗艦「竜神丸」の櫓の上から、総奉行である源次が軍配を振るう。彼の隣には伝令役の若者たちが控え、軍配の動きに合わせて旗信号を送り、湖上の船団に指示を伝達する。その眼差しは、もはや漁師のものでも、単なる軍師のものでもない。一つの艦隊を率いる「提督」のそれであった。
「全軍、魚鱗の陣を組め! 敵の奇襲に備え、密集隊形を取る!」
源次の号令を受け、「竜神丸」の甲板に立つ船手頭の新太と、偵察部隊の旗船に乗る船頭頭の権兵衛が、それぞれの部隊に太鼓と法螺貝で指示を飛ばす。
十数隻の関船が、まるで一つの生き物のように動き始めた。櫂の動きは完璧に揃い、白い航跡を描きながら、湖上に美しい魚の鱗の陣形を描き出していく。その統率の取れた動きに、陸で見ていた中野直之ら陸の将たちも息を呑んだ。
「なんと……。あれが、本当に我らの兵か。陸の兵ですら、これほど見事な陣形変更は容易ではないぞ。しかも、あの速度で……」
源次が改良を指示した「低重心構造」と「波切構造」を持つ船は、従来の和船に比べて横揺れが格段に少なく、直進時の速度も増していた。兵たちは、揺れる船上でも足腰を安定させ、次の命令を待っている。
「敵船、発見! 鶴翼の陣に移行! 敵を包囲せよ!」
源次の次の号令で、魚鱗の陣は一瞬で両翼を広げ、鶴が羽を広げるかのように、湖上に浮かべた仮想敵船(藁人形を乗せた小舟)を包み込んでいく。
「放て!」
包囲を完成させた船団から火矢が一斉に放たれ、的を見事に射抜いた。炎が上がり、黒い煙が空に立ち上る。
丘の上からは、地鳴りのような歓声が沸き起こった。「すげえ…船があんなに速く動くなんて」「あの旗、風に靡いて綺麗だなぁ」「俺たちの息子も、あの中にいるんだ!」
(完璧だ……! 俺の知識、新太の訓練、権兵衛の経験。そして、山の兵と海の兵の結束力。全てが、俺の想像以上の化学反応を起こしている)
源次は、揺れる櫓の上で、軍配を握る手に力がこもるのを感じた。
(俺が知る歴史では、井伊家は最後まで陸の戦いに縛られ、武田と徳川の草刈り場となって疲弊し続けたはずだ。水軍なんて、夢物語ですらなかった。だが、今、目の前にいるのは、史実には存在しなかった、全く新しい井伊家の力だ。……そうだ、俺がここに来たからだ。これこそが、俺がこの世界で成し遂げるべき、歴史の改変。直虎様を、あの悲劇的な未来から救い出すための、確かな第一歩だ!)
彼は決して浮かれてはいなかった。
(だが、これはまだ演習だ。俺の指示通りに動いているに過ぎない。彼ら自身の判断力が試されるのは、ここからだ)
基本的な艦隊行動の成功に手応えを感じつつも、源次はすぐに次の段階へと意識を切り替えていた。
彼は軍配を高く掲げ、声を張り上げた。
「――これより、演習は最終段階に移行する! 紅白に分かれ、実戦を想定した模擬戦を行う! 紅組大将は新太、白組大将は権兵衛! 双方、思う存分、己の戦を見せよ!」
その言葉に、浜辺の歓声は一瞬静まり、再び固唾をのむような緊張感が湖畔を包んだ。井伊水軍の、真の力が試される時が、今まさに始まろうとしていた。