第242節『水軍の心臓』
第242節『水軍の心臓』
「そして、第三番隊、補給・工作部隊。通称『かじか隊』と名付ける! 指揮は、この総奉行である私が直々に執る!」
源次の言葉に、兵たちの間にわずかな困惑が広がった。かじか――川底に張り付くように生きる、地味で小さな魚の名。戦闘部隊の「槍」、偵察部隊の「目と足」という勇ましい名に比べ、あまりにも見劣りがする。他の部隊からは、かすかな失笑さえ漏れた。第三番隊に選ばれた者たちの顔が、屈辱と失望で曇っていく。
だが、源次は一喝した。
「笑うな! この中で、かじかを食ったことのない者はいるか! 見た目は地味だが、その身は驚くほどうまい。そして何より、かじかが棲む川は、必ず水が清い。かじかがいなくなれば、その川は死ぬ。それほど大切な魚だ!」
彼は、第三番隊の者たちに向き直った。
「戦の勝敗は、目に見えぬ場所でこそ決まる! 船を造り、網を修理し、兵糧を運び、情報を集める。お前たちの働きがなければ、新太殿の槍はただの鉄の棒となり、権兵衛殿の舟はただの木の箱となる! 派手な手柄はないかもしれん。だが、この部隊なくして、我らは一日たりとも戦えぬ。お前たちは、この井伊水軍の清き流れを守る、かけがえのない『心臓』だ!」
その言葉に、うつむいていた者たちが、はっと顔を上げた。
源次は、先の戦で足を負傷し、絶望していた井伊の老兵の前に進み出た。「弥一右衛門殿。あなたのその足では、もう槍は振るえまい。だが、あなたがこれまで見てきた戦の記憶、培ってきた武具の手入れの技は、誰にも奪えぬ宝だ。その技を、若い者たちに教えてはくれぬか。あなたの経験こそが、この水軍の礎となる」
「……わしが、まだ……お役に立てることが……」
老兵の皺だらけの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
源次は、徳川から来た船大工の頭領にも頭を下げた。「藤五郎殿。あなた方の三河の技と、権兵衛殿たちが持つ浜名湖の知恵。その二つを融合させ、日の本一の船を造る。その指揮を、あなたに任せたい」
ただの派遣職人ではなく、技術開発の責任者として認められた船大工の顔が、誇りに輝いた。
「かじか、か……。へっ、悪くねえ名だ。目立たねえが、いなけりゃ川は汚れちまうからな」
かじか隊に配属された一人が、そう呟いた。その声は、もう卑屈ではなかった。自らの仕事に、確かな誇りを見出した者の声だった。
戦闘、偵察、補給。そして、それらを統括する総奉行。現代の軍隊にも通じる、極めて合理的で効率的な組織。それは、個人の武功や家柄が全てだったこの時代の常識を覆すものだった。誰もが、自分の居場所と誇りを持てる組織。それこそが、本当に強い軍隊なのだと、この場にいる誰もが肌で感じ始めていた。
新太と権兵衛もまた、かじか隊の重要性を理解し、その隊員たちに向かって深々と頭を下げた。「俺たちの背中は、お前たちに預けたぞ」。その一言で、三つの部隊の間に、見えざる絆が確かに生まれた。
(これでいい。直虎様が目指しているのも、きっとこういう国のはずだ。一人ひとりが、自分の役割を果たせる国……)
源次は、動き始めた組織を見渡し、静かに頷いた。だが、彼の真の狙いは、単なる効率化だけではなかった。
(新太の部隊、権兵衛殿の部隊、そして俺の部隊。今はまだ三つの川だ。それぞれが、それぞれのやり方で流れようとするだろう。だが、いずれこの三つの川を、井伊水軍という一つの大河へとまとめ上げてみせる。そのためには、健全な競争も必要だ)
彼は、異なる文化を持つ者たちをあえて別々の部隊に分けることで、まずはそれぞれの専門性を極めさせ、その上で互いを意識させ、高め合わせようとしていたのだ。その深謀遠慮に気づく者は、まだ誰もいなかった。