第241節『三つの牙』
第241節『三つの牙』
源次による個人面談が終わってから数日後。浜名湖畔に築かれた真新しい拠点に、井伊水軍に加わることになった全ての者が集められた。秋晴れの空の下、湖面は瑠璃色に輝き、吹き渡る風にはかすかな塩の香りが混じっている。これまで反目し合っていた井伊の兵も、元武田の兵も、浜名湖の漁師も、今はただ固唾をのんでその時を待っていた。彼らの前には大きな木の札が立てられ、そこには源次の手による正式な役割分担が、まだ墨も乾かぬうちに記されているはずだった。だが、札はまだ白い布で覆われ、その全貌は隠されていた。
「一体、何が始まるんだ」「俺たちは、どこに配属されるんだろうな」「まさか、ごちゃ混ぜにされるんじゃねえだろうな」
兵たちの間では、期待と不安が入り混じった囁き声が交わされていた。個人面談によって、軍師・源次が自分たちの個性を見抜いていることは理解していた。だが、だからこそ、自分がどんな評価を下され、どんな役目を与えられるのか、誰もが落ち着かない気持ちでいたのだ。
やがて、源次がその札の前に立った。彼の背後には新太と権兵衛が控え、その緊張した面持ちが、これから行われる発表の重要性を物語っている。
「これより、井伊水軍の部隊編成を発表する!」
源次の声が、ざわめく兵たちの間を貫いた。彼は、白い布に手をかけると、一気にそれを引き剥がした。秋の日差しを浴びて、墨痕鮮やかな文字が兵たちの目に飛び込んでくる。
「第一番隊、戦闘部隊! 船手頭・新太の指揮下に入れ!」
その言葉に、弥助をはじめとする元武田の兵たちの顔に緊張が走った。彼らの視線が、指揮官として名を呼ばれた新太に集まる。
源次は続けた。「陸の戦いを知る元武田の兵と、気概のある井伊の若武者でこれを編成する。お前たちの役目はただ一つ。この水軍の最強の『槍』となり、敵船に乗り込み、敵を殲滅する刃となれ!」
その言葉が終わるや、新太が雄叫びと共に一歩前に進み出た。
「聞いたか、野郎ども! 俺たちは一度死んだ身だ! だが、軍師殿と直虎様は、我らに再び戦う場所を与えてくださった! この槍は、もはや武田のためではない! この井伊谷と、我らの新しい居場所を守るために振るう! 俺に続け!」
その魂の叫びに、弥助たち元武田兵の目から涙がこぼれ落ちた。「うおおおっ!」と、彼らは腹の底からの雄叫びを上げる。捨て駒にされ、誇りも忠誠も失いかけていた彼らが、再び武士として戦う意味を見出した瞬間だった。その凄まじい気迫に、共に名を連ねられた井伊の若武者たちもまた、恐れではなく興奮に身を震わせた。最強の猛将の下で、最強の部隊の一員として戦える。その誉れが、彼らの武者震いを抑えきれなくさせていた。
「第二番隊、偵察・操船部隊! 船頭頭・権兵衛の指揮下に入れ!」
今度は、浜名湖の漁師たちの間にどよめきが走った。頭領である権兵衛が、軍の正式な指揮官として認められたのだ。
「浜名湖を知り尽くした海の男たちでこれを編成する。お前たちは、この水軍の『目』となり『足』となれ! 誰よりも早く敵を見つけ、誰よりも巧みに船を操り、我らを勝利へと導け! 戦の勝敗は、お前たちの腕にかかっている!」
その言葉に、権兵衛はにやりと笑って胸を叩いた。「任せとけ!」。彼の周りには、漁の腕に絶対の自信を持つ荒くれ者たちが、「俺たちの出番だな」と誇らしげな顔で立っている。自分たちの生業である漁の技が、侍たちの戦において最も重要な役割を担うと宣言されたのだ。それは、彼らがこれまで侍から受けてきた侮りを、完全に覆すものだった。
「聞いたか野郎ども!」と権兵衛が叫ぶ。「俺たちの毎日の仕事が、侍どもを救う『戦』になるんだとよ! 侍に指図されるのは癪だが、この軍師様は俺たちの力を分かってくれてる。ならば、見せてやろうじゃねえか! この浜名湖の主が誰であるかをな!」
漁師たちは「おう!」と鬨の声を上げ、互いの肩を叩き合った。自分たちの仕事に、新たな誇りを見出した瞬間だった。
華々しい二つの部隊が誕生し、兵たちがそれぞれの指揮官の下に集い、熱狂に包まれていく。だが、その輪に加われず、不安げな表情で立ち尽くす者たちがいた。手先の器用さを買われた者、計算が得意な者、そして徳川から派遣されてきた船大工たち。さらには、先の戦で負傷し、もはや槍働きができないと絶望していた井伊の老兵たちの姿もあった。
彼らは、自分たちがどの部隊にも選ばれなかったことに、あるいは自分たちには戦う力がないと判断されたのだと、うつむいていた。
その彼らの前に、源次が静かに歩み寄った。
「そして、第三番隊――」
彼の声に、彼らはびくりと顔を上げる。その視線は、期待よりもむしろ、次なる絶望への恐怖に満ちていた。源次は、その一人ひとりの顔を見渡し、静かに、しかし力強く、最後の部隊の名を告げた。その名は、彼らの運命を、そして井伊水軍そのものの未来を決定づける、最も重要な響きを持っていた。