第240節『それぞれの誇り』
第240節『それぞれの誇り』
源次の静かな声が、一触即発だった造船所の空気を支配した。帰ろうとしていた漁師たちも、それを止めようとしていた井伊の若武者たちも、そして遠巻きに見ていた元武田の兵たちも、皆がその声の主へと視線を向ける。
源次は、その中心に静かに立った。
「皆の言うことは、全て正しい」
意外な言葉に、全員が戸惑う。
「井伊の侍の忠義は、この谷を守る礎だ。武田の兵の強さは、戦場で磨かれた本物の力だ。そして、浜の民の技は、我らには到底真似できぬ神業だ」
彼は、それぞれの集団の「誇り」を言葉にして肯定した。
「だが、槍だけでは海では戦えぬ。船だけでは陸は守れぬ。そして、力だけでは組織は動かせぬ。我らに足りないのは、互いの力を認め合い、それを一つの大きな力へと変える『知恵』だ。俺は、そのためにここにいる。お前たちの力を、無駄死にさせないために」
その真摯な言葉に、誰もが反論の言葉を失った。
その日を境に、源次は全ての兵士たちとの個人面談を開始した。それは、彼らの不満を聞き、ガス抜きをするためだけではない。一人ひとりの個性と能力を見極め、それぞれにふさわしい「居場所」を与えるための、徹底的な人事評価だった。
「名は?」「はっ、弥平太と申します。井伊谷の生まれで、猟師をしておりました」
「ほう、猟師か。ならば、遠くの獲物を見つけるのは得意だろうな」
「はあ、まあ……山の獣の動きを読むのは、誰にも負けぬつもりですが……」
「よし、お前は偵察に向いている。船の上から、敵の動きや潮の変化を見つける『目』になれ。槍働きで手柄を立てることだけが、武士の務めではないぞ」
「……はっ!」
弥平太と呼ばれた若者の目に、驚きと誇りの光が宿った。これまで「槍働きができない者は半人前」という空気に劣等感を抱いていた彼に、源次は新しい価値を与えたのだ。
「次」「……三郎太です。舞阪の生まれで、親の代から網元を」
「あんたは、誰よりも網の繕い物がうまいと権兵衛殿から聞いた。ならば、船の補修や兵站管理が向いているかもしれん。戦は、槍働きだけでは勝てぬ。それを支える者たちがいてこそ、初めて勝てるのだ。お前のその腕は、百本の槍にも勝る」
「……へい」
三郎太は、ぶっきらぼうに返事をしたが、その顔は満更でもないようだった。「裏方仕事」と見下されがちだった自らの技が、軍の勝利に不可欠な力だと認められたのだ。
「貴殿は……」「弥助殿の配下におりました、吉兵衛と申します。武田では、工兵として陣城の設営などを…」
「ならば、貴殿には徳川から来た船大工たちとの橋渡し役を頼みたい。武田の陣城作りの知恵と、三河の船作りの技が合わされば、誰も見たことのないものが生まれるやもしれん。新しい船の形を、俺と共に考えてはくれぬか」
「……御意!」
吉兵衛の目に、技術者としての探究心の炎が灯った。
一人ひとりの個性と能力を見極め、適材適所の役割を与える。それは、身分や家柄で役目が決まり、武士であれば誰もが槍働きで手柄を立てることだけを目指す、この時代の常識を覆す画期的な人事だった。兵たちは、初めて自分という「個」を認められ、その能力にふさわしい役割を与えられたことに、驚きと、そして静かな誇りを覚え始めていた。
(よし、これでいい。パズルのピースは、それぞれ形が違うからこそ、一つの絵になるんだ。俺は、そのピースが収まるべき場所を示してやるだけだ)
数日間にわたる面談を終えた源次の顔には疲労の色が濃かったが、その瞳には確かな手応えが宿っていた。
造船所の空気は、明らかに変わっていた。いがみ合いは消え、代わりにそれぞれの持ち場で自分の仕事に没頭する者たちの、静かな熱気が満ち始めていた。
源次は、静かに、しかし確実に、この荒くれ者の集団を、未来の軍隊へと変貌させるための、最初の礎を築いていた。