第24節『矢の雨』
第24節『矢の雨』
突撃――。
その言葉が号令として放たれたとき、井伊軍の兵士たちの胸は熱気に膨れ上がっていた。
「敵は怯んでいるぞ!」
「突っ込め! 一番槍は俺だ!」
前列の若い足軽が声を張り上げ、泥を蹴り散らして駆ける。
鉄の草摺が鳴り、鎧の板金がぶつかり合う音が波のように広がった。
敵陣中央は、不自然なほど静かだった。
わずかに残された敵兵が、後退しながら槍を振るっている。
それは守ろうというより、誘い込もうとしているかのような、弱々しい抵抗にすぎなかった。
「勝った! 押し込め!」
「この勢いで首を挙げるぞ!」
鬨の声は高まり、兵たちは歓喜に酔いしれる。
だが、その熱狂の只中で――源次だけは冷え切っていた。
「……まだだ。まだ来ないのか」
彼の目は、突撃する仲間たちではなく、谷の両側にそびえる崖へと注がれていた。
岩肌に生えた松が、不気味に風に揺れている。
その静けさが、逆に恐ろしい。
「源次……お前、さっきから何を見てる?」
隣を走る重吉が、低く問いかける。
だが源次は答えなかった。
答えられなかった。
(来る……必ず来る……!)
未来を知る者としての確信が、胃の奥を冷たく締め上げていた。
井伊軍の主力が、敵陣の「懐」へ完全に踏み込んだ、その瞬間。
――ズラリ。
崖の上に、無数の人影が立ち並んだ。
紅い旗が、風にたなびく。
六つの菱。
「武田……!」
源次の喉が勝手に震えた。
一瞬の静寂。
それは、天地が息をひそめたかのような、張り詰めた沈黙だった。
そして――。
「おおおおおおッ!」
鬨の声が、天地を割った。
次の瞬間、空が黒に染まった。
無数の矢羽根が太陽を覆い、視界を暗くする。
それは点の集まりではなく、面となった影。
大地に死を降らせる、黒き豪雨。
「矢だぁあああ!」
「ぐあああっ!」
悲鳴が、わずかな時差で戦場に轟く。
だが、源次はすでに叫んでいた。
「伏せろぉおおおっ!!!」
その叫びは警告ではなく、命令だった。
同時に、彼は隣の重吉の鎧を乱暴に掴み、地面へと引き倒す。
「うわっ……!」
重吉の声と同時に、ヒュルルルル――と、空気を裂く音が頭上を覆った。
刹那。
「ドスッ」「グシャッ」「ガンッ」
矢が大地に突き刺さり、鎧を貫き、肉を裂く。
乾いた打撃音、濡れた鈍い音が、入り乱れて鼓膜を撃つ。
「ぎゃあああ!」
「助け……!」
「ひ、ひぃっ!」
仲間たちの悲鳴が次々と上がる。
ほんの数歩前を走っていた足軽は、首に矢を受けて喉を裂かれ、その場に崩れた。
別の者は背に三本を突き立てられ、地面に縫い付けられるように倒れ込んだ。
重吉のすぐ横をかすめた矢が、地面に突き刺さり、砂を跳ね上げる。
源次の頬にも細かな砂粒が飛び散った。
(今の一瞬で……これだけ死んだ……!)
戦場は、一息で阿鼻叫喚へと変貌した。
矢の第一波が止んだ。
耳の奥でまだ風切り音が残響している。
源次は、土の匂いにまみれたまま、恐る恐る顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは――矢衾にされた仲間たちの屍。
先ほどまで歓喜の声を上げていた者たちが、今は泥に沈み、動かぬ肉塊となっている。
矢が肩から突き出たままうつ伏せに倒れた者。
額を射抜かれ、目を見開いたまま絶命した者。
彼らの鮮血が、谷底の泥に赤い筋を描いていた。
そして、突撃していた部隊は――。
完全に袋小路に囚われていた。
前にはまだ健在の敵兵。
左右と上方からは矢雨。
逃げ場はない。
「……くそっ! 囲まれた!」
「退け! 退けぇ!」
叫びは絶望に変わり、やがて断末魔へと変わっていく。
「……源次、お前……」
重吉が呆然と呟いた。
その目は問いかけていた。
なぜ伏兵の場所を知っていたのか。
なぜお前だけが生き延びられたのか。
だが源次には答える余裕はなかった。
(第二波が来る……! 立ち止まれば殺される!)
彼の目は必死に周囲を走査した。
崖の岩肌にわずかに穿たれた窪み。
倒木が作る影。
人二人ほどなら隠れられる岩陰。
「重吉さん……あそこへ!」
源次は立ち上がり、血と泥に濡れた手を重吉に差し伸べる。
彼の声は、恐怖ではなく確信に満ちていた。
重吉は一瞬、目を見開き――次の瞬間、頷いた。
その様子を見た数人の兵が、源次の叫びを思い出し、同じように伏せていた。
彼らもまた、生存の一縷の望みを求め、源次の後に続いた。
背後では、再び弓弦が一斉に鳴る音が響き渡る。
「急げ!」
源次は叫びながら、重吉を引き、岩陰へと駆け込む。
次の瞬間、矢の第二波が戦場を覆った。
――ヒュウウウウウウッ……ドスッ! グシャッ!
遮蔽物の外で、さらに多くの仲間が絶命していく。
だが、源次たちはわずかな陰に身を押し込み、辛うじて生を繋いだ。
荒い息を吐きながら、源次は鋭い眼光で周囲を睨む。
(これが……歴史の罠……。でも――俺は、生き残る!)
未来を知る者としての「初めての成功」が、胸の奥でかすかに灯をともした。
それは絶望の闇にわずかに差し込んだ、細い光だった。