第239節『水と油と鉄』
第239節『水と油と鉄』
権兵衛とその手下たちが正式に井伊家に加わったことで、これまで絵に描いた餅でしかなかった「井伊水軍」の構想は、ついに現実のものとして動き出した。浜名湖のほとりには、徳川から派遣された船大工たちと、新たに仲間となった権兵衛配下の船大工たちが集い、かつてない規模の造船所が築かれていく。槌音と掛け声が、静かだった湖畔に新たな生命を吹き込んでいた。
だが、源次の前に立ちはだかったのは、技術や資金以前の、もっと根源的な問題だった。それは「人」の壁。井伊家譜代の山の武士たち、新太を慕って降った元武田の兵たち、そして湖の掟で生きてきた権兵衛配下の漁師たち。出自も、気質も、戦の常識も全く異なる三つの集団が、一つの場所に集められたのだ。それは、水と油と鉄を、一つの鍋で煮込むようなものだった。
案の定、合同での訓練が始まると、そこかしこで軋轢が生まれた。
陸での槍の訓練。井伊の若武者が、漁師上がりの兵に偉そうに指導する。
「おい、漁師! 槍の構えがなってねえぞ! そんなふらついた腰で、武田の兵と渡り合えるか!」
「へっ、侍様こそ、口ばっかりじゃねえか。揺れねえ地面の上で威張ってな!」
漁師も負けじと言い返し、睨み合いはすぐに掴み合いの喧嘩へと発展した。
逆に、湖上での操船訓練では立場が逆転した。
「違う、そうじゃねえ! 櫂はそうやって力任せに入れるんじゃねえんだよ!」
今度は漁師が、船酔いで青ざめる井伊の若武者を怒鳴りつける。
「うるさい! 貴様こそ、軍師殿の兵に何たる口の利き方か!」
「へっ、軍師殿の名前を出せば船が動くのかよ。山猿は山に帰んな!」
湖の上でも、罵声が飛び交った。
そして、そのどちらにも加わらず、冷ややかな目で見下しているのが、弥助をはじめとする元武田の兵たちだった。彼らは、井伊兵の甘い訓練も、漁師たちの規律なき動きも、「遊びではないのだぞ」と一蹴し、黙々と独自の厳しい訓練をこなしている。その圧倒的な練度と、自分たち以外を認めない排他的な空気が、逆に井伊兵と漁師たちの双方に劣等感と焦りを与え、さらなる反発を生んでいた。
源次は、その光景をただ静かに見つめていた。
新太は「源次、俺が一度、あいつらを叩きのめしてやろうか。そうすりゃ黙るだろ」と息巻くが、源次はそれを手で制した。
「いや、力で押さえつけても、心は離れるだけだ。彼らには、それぞれの誇りがある。それを尊重することから始めよう」
(予想通り、いや、予想以上にごちゃ混ぜだな。だが、それでいい。異なる文化がぶつかり合うからこそ、新しい力が生まれる。問題は、このエネルギーをどうやって一つの方向に向からせるかだ)
彼は、あえてすぐには介入しなかった。それぞれの集団のリーダー格が、部下たちの不満をどうまとめ、どういう言葉で語るのかを、注意深く観察していた。誰が本当の意味で「組織」を考えているのかを見極めるためだった。
数日が過ぎ、軋轢が頂点に達した。ある日の夕刻、ついに漁師の一団が「こんな場所にはいられねえ! 俺たちは浜に帰る!」と荷物をまとめ、造船所から立ち去ろうとしたのだ。
「待て!」
井伊の若武者が、彼らの前に立ちはだかる。「持ち場を離れるは武士にあるまじきこと!」
「うるせえ! 俺たちは侍じゃねえんだよ!」
一触即発。組織は、誕生する前に空中分解の危機を迎えた。
その彼らの前に、源次が一人で静かに立ちはだかった。
「……皆さん。少し、話を聞いてもらえませんか」
その声は穏やかだったが、誰も逆らうことのできない、不思議な力強さがあった。