第238節『家康の見る器』
第238節『家康の見る器』
浜松城の奥深く、徳川家康の私室は、静まり返っていた。
卓上に置かれた碁盤には、黒石と白石が複雑な模様を描き、膠着した戦況を映しているかのようだった。家康は一人、その盤面を睨み、長考に沈んでいる。
その静寂を破ったのは、障子の向こうからの、控えめな声だった。
「――殿。井伊家より、定期の言上が届いております」
酒井忠次の声だった。
「入れ」
短く応じると、忠次が静かに入室し、一通の書状を差し出した。
家康は、億劫そうにその書状を開いた。だが、数行を読み進めるうちに、その眉がかすかに動いた。書状の末尾に、添え書きのように、信じがたい一文が記されていたのだ。
――『追伸。我が軍師・源次、浜名湖にてかの権兵衛一派を説き伏せ、此度、我が配下に加え候』
「……権兵衛を、だと?」
家康の口から、思わず声が漏れた。
忠次が、険しい顔で補足する。
「はっ。我らが浜松城に詰める間者からの報せによりますと……井伊の軍師は、かの権兵衛に『漁』で勝負を挑み、完膚なきまでに打ち負かし、心服させたと。今や浜の者たちは、彼を『潮神』と崇め、絶対の忠誠を誓っている由にございます」
家康は、しばし言葉を失った。そして、次の瞬間、こらえきれぬといった様子で、腹の底から豪快に笑い出した。
「はっ、はっはっは! 漁で勝負だと!? あの男、相も変わらず常人の物差しでは測れぬわ!」
権兵衛という男を、家康はよく知っていた。浜名湖の水運を牛耳る海の蛟。我が徳川が水軍を欲し、これまで再三にわたって誘いをかけたにもかかわらず、「侍の指図は受けぬ」と首を縦に振らなかった、一筋縄ではいかぬ男。その男を、武力ではなく、あろうことか本業である「漁」で打ち負かし、手懐けた。
(……面白い。実に面白い男よ)
家康は、碁石を一つ、ぱちり、と盤上に置いた。
(あの男は、ただの軍師ではない。人心掌握に長けた交渉人であり、国衆を調略するのと全く同じやり方で浜の民を手懐けた。武田との戦だけでなく、国盗りの盤面でも、あの男は駒を動かし始めたか)
彼は、源次という「友」が持つ底知れぬ器に、警戒と、それを遥かに上回る期待を抱いていた。
「忠次」
「はっ」
「井伊の船造り、滞っておるであろうな。金も、材木も、鉄も足りておるまい」
「御意。井伊の財政は、火の車にございます」
家康は、にやりと笑った。
「――金子三十貫を、井伊家へ送ってやれ。名目は、水軍創設への祝いじゃ」
その言葉に、忠次は目を見開いた。「殿、それはあまりに……。施しが過ぎれば、相手を驕らせることにも繋がりかねませぬ。ここは、祝いの体裁を取りつつも、あくまで徳川家からの『貸し』であることを明確にすべきかと」
老練な家老としての、当然の懸念だった。だが、家康は首を横に振った。
「よいのだ、忠次。あの男は、借りたものは必ず返す。それも、倍にしてな。我らが渡すのはただの金ではない。あの男が描く未来への、種銭よ」
その言葉には、損得勘定を超えた、源次という男への純粋な期待が込められていた。忠次は、主君のその器の大きさに、もはや何も言えなかった。
(見せてもらおうぞ、源次殿。そなたが、その金でいかなる舟を造り、いかなる潮を呼び込むのか。儂の『友』が、どこまで高く飛べるのかをな)
家康の瞳には、もはや源次を単なる陪臣として見る色はなかった。それは、自らが認める規格外の才能が、どのような動きを見せるのかを心から楽しむ眼差しだった。碁盤の上に置かれた一つの石が、全体の形勢を大きく変えることがある。彼にとって、源次という男は、まさにその一手となりつつあった。