第237節『直虎の見る潮』
第237節『直虎の見る潮』
井伊谷城の奥座敷は、秋の夜長にふさわしい静寂に包まれていた。
卓上に置かれた油皿の灯が、几帳の向こうで書状に目を通す井伊直虎の横顔を、淡く照らし出している。彼女は、数日前に浜松から戻り、戦後処理と、源次が新たに打ち立てた「水軍創設」という途方もない計画の後方支援に追われていた。
その静寂を破ったのは、廊下を駆ける慌ただしい足音だった。
「申し上げます! 浜名湖の源次様より、早馬が到着いたしました!」
障子の向こうから聞こえる声に、直虎は筆を置いた。傍らに控える老兵・重吉が、訝しげに眉をひそめる。
「浜名湖から……? あの若造、一体何をしでかしたのやら」
広間に通された使者は、源次と共に漁対決に赴いた井伊の若武者の一人だった。彼の顔は旅の疲れと、いまだ冷めやらぬ興奮で紅潮している。彼はまず、源次からの正式な報告書を直虎に手渡した。
――『浜名湖の最大勢力、権兵衛一派、説得に成功。これより井伊水軍に加わる運びとなり候』
簡潔だが、信じがたい内容だった。中野直之ですら「あの者たちは侍を蛇蝎の如く嫌う。説得は至難であろう」と漏らしていた、浜の荒くれ者たち。それを、わずか数日で。
「……どうやって」
直虎の問いに、若武者は堰を切ったように語り始めた。
交渉の決裂。源次の無謀な挑戦状。侍の身分を捨て、ただの海の男として勝負を挑んだ覚悟。そして、誰もが敗北を確信した中、ただ一人潮目を読み切り、たった一度の網で奇跡の大漁を成し遂げた、神がかり的な手腕。
若武者は、まるで見てきたもの全てが夢であったかのように、熱っぽく、そして畏敬の念を込めて語り続けた。
「……権兵衛親方は、軍師様の前に膝をつき、『あんたは潮神様だ』と。浜の者たちも皆、それに続きました。軍師様はもはや、我らにとってただの指揮官ではございませぬ。あの湖そのものを味方につける、人知を超えたお方……」
その報告に、広間にいた家臣たちは言葉を失い、ただ顔を見合わせるばかりだった。
報告を終えた若武者が退出した後も、広間はしばらく異様な静けさに包まれていた。
やがて、重吉が長いため息をついた。
「……潮神、か。あの若造、またとんでもないことをしでかしたもんですな。じゃが、これで水軍創設の最大の壁は越えられましたな、直虎様」
しかし、直虎は源次の報告書から目を離さずにいた。彼女の視線は、その隅に添えられた、短い私信の一文に注がれていた。
――『推していただいた策、まずは一つ、形になりました。全ては、直虎様が安心して笑ってくださる、その日のために』
(……あの者は)
直虎は、そっと書状を胸に抱いた。
(あの者は、ただ戦に勝ったのではない。漁に勝ったのでもない。侍を信じぬ者たちの、凝り固まった心を溶かし、味方につけたのだ。力ではなく、自らの覚悟と、人知を超えた潮読みの力で)
彼女は、源次がやっていることの本質を、誰よりも深く理解していた。それは、単なる漁ではない。「戦わずして勝つ」という、彼が目指す戦の縮図。そして、その根底にあるのが、ただひたすらに自分と井伊谷の平穏を願う、純粋なまでの想いであることも。
(そなたの忠義は、どこまでも真っ直ぐじゃな、源次。だが、その力が大きすぎるゆえに、いつかそなた自身を呑み込むのではないか……)
喜びと同時に、彼の異質さに対する、母のような、あるいは領主としての深い懸念が、彼女の胸をよぎる。
「重吉」
「はっ」
「ただちに、城にある全ての材木、鉄、そして兵糧の備蓄を改めよ。源次が戻り次第、すぐにでも船造りが始められるよう、万全の準備を整えるのじゃ」
「よろしいので?」
「うむ」と直虎は力強く頷いた。「あの男は、潮神などではない。じゃが、この井伊家に勝利の潮を呼び込む、唯一無二の男じゃ。その男が存分に腕を振るえるよう、盤面を整えるのが、わらわの役目よ」
その瞳には、もはや不安の色はなかった。領主として、自らが信じた懐刀を、全力で支えるという揺るぎない決意の光だけが宿っていた。