第236節『潮神』
第236節『潮神』
権兵衛の潔い敗北宣言が、静まり返った浜名湖に響き渡った。
源次は、その言葉を静かに受け止めると、深々と頭を下げた権兵衛に手を差し伸べた。
「権兵衛殿。顔を上げてくれ。あんたの腕は本物だ。俺一人では、これほどの漁はできなかった。俺には潮を読む目がある。あんたには、人を率いる力と、この湖を知り尽くした経験がある。この二つが合わされば、俺たちはもっと大きなことができる。そうは思わないか?」
その言葉は、勝者の驕りではなかった。敗者への労いと、未来を共に見る仲間への、対等な誘いだった。
(……やはり、この海の男は只者じゃなかった)
権兵衛は、源次の差し伸べた手を見つめた。
(俺は、漁の腕だけで負けたんじゃねえ。この男の器の大きさに、負けたんだ。俺を打ち負かした上で、なお手を差し伸べ、対等な仲間として扱おうとする。俺がこれまで出会ってきたどの侍とも違う。この人になら……あるいは、この海の未来を、俺たちの未来を、託せるかもしれん)
彼は、その手を力強く握り返した。その瞬間、二人の間に、言葉を超えた魂の契約が結ばれた。
権兵衛は、自らの舟から源次の舟へと飛び移ると、仲間たちが固唾をのんで見守る中、その場に泥と水で濡れた膝をついた。
「……俺たちの負けだ。今日から、あんたの言うことは何でも聞く。あんたが舟を出せと言えば出す。死地へ行けと言われりゃ行く。俺たちの命、あんたに預けた」
湖の主が、完全に臣従を誓ったのだ。
その言葉に続き、権兵衛の舟に乗っていた手下たち、そして浜辺で見守っていた全ての漁師たちが、次々とその場に膝をつき、口々に叫んだ。
「潮の流れを、これほどまでに読み切るお方など、見たことがねえ!」
「いや、これは人じゃねえ! 海の神様、潮の神様だ!」
「そうだ、潮神様だ! 俺たちの神様だ!」
潮神――。
誰からともなく上がったその呼び名は、瞬く間に浜全体に広がった。彼らはもはや、源次をただの侍ではない、潮の流れそのものを支配する神のごとき存在として畏れ敬い、絶対の忠誠を誓ったのだ。それは、武士への忠誠とは全く質の違う、自然への畏怖にも似た、原始的で、そして何よりも強固な信仰の始まりだった。
(潮神……か。いやいや、俺はただ身体が覚えていた記憶とこの時代にはまだない知識を利用しただけだから! 神とか恐れ多くて罰が当たるわ! でも、まあ……海の男としては悪くない響きだな。この称号があれば、こいつらを動かしやすくなる。利用させてもらうのもありかも)
源次は内心でツッコミを入れながらも、その称号が持つ重みを、静かに受け止めていた。
彼は権兵衛の肩に手を置き、力強く立たせた。
「顔を上げろ、権兵衛殿。俺は神じゃない。あんたたちと同じ、海の男だ。そして、これからは同じ舟に乗る仲間だ。あんたの力が必要だ。俺と共に、この浜名湖の、いや、日の本の海を獲りに行こうじゃないか」
その言葉に、権兵衛は涙を浮かべながら、力強く頷いた。
「へっ……あんたになら、どこまでもついていくさ。大船頭」
こうして、源次は井伊水軍の創設に不可欠な、最強の仲間を手に入れた。彼の視線は、もはやこの湖ではなく、その先に広がる天下の海へと向けられていた。
(よし、人材は手に入れた。次は、この最高の素材を、どうやって最強の組織に料理するかだ。俺の腕の見せ所だな)
彼の頭の中では、すでに次なる一手――『組織作り』の青写真が描かれ始めていた。