第235節『決着』
第235節『決着』
「……親方」
腹心の一人が、乾いた唇からようやく絞り出すように、かすれた声で権兵衛の名を呼んだ。だが、権兵衛は答えなかった。いや、答えられなかった。彼の目は、湖面に浮かぶもう一隻の舟――源次の舟に、まるで縫い付けられたかのように固定されていたからだ。
その舟の上には、獲れた魚が銀色の山を築き、生命の躍動を放っている。対して、自分たちの舟の生け簀は、半日以上を費やしたにもかかわらず、その量に太刀打ちできない。だが、権兵衛の心を打ちのめしていたのは、その圧倒的な漁獲量の差ではなかった。
彼の視線は、魚の山の上で、ただ一人、静かにこちらを見据えて仁王立ちになっている男――源次に注がれていた。その男の姿は、勝利に驕る勝者のそれではない。まるで、この結末が最初から分かっていたかのように、あまりにも静かで、揺るぎなかった。その瞳には、もはや嫉妬も怒りも届かない。そこにあるのは、自らの理解を遥かに超えた、神仏のごとき存在を前にした、純粋な畏怖だけだった。
(……潮を読む、だと? あれは、そんな生易しいもんじゃねえ)
権兵衛の脳裏で、これまでの己の漁師人生が走馬灯のように駆け巡った。親から叩き込まれた漁の技。荒波の中で肌で覚えた潮の流れ。何十年とかけて築き上げてきた、この湖の主としての絶対的な自負。その全てが、音を立てて崩れていく。
(俺たちは、魚の群れを追いかけていた。目の前の獲物に一喜一憂し、湖の上を駆けずり回っていただけだ。だが、あの男は違った。奴は、魚ではなく、群れそのものを動かす湖の呼吸を、風の道を、そして天の理を読んでいたんだ。俺たちは湖の上で戦っていた。だが、あの男は、湖そのものを味方につけて戦っていた。……勝てるわけが、ねえ)
それは、単なる勝負の敗北ではなかった。自らの存在意義そのものが、根底から覆された瞬間だった。
彼は、ゆっくりと舟の縁に置かれた自らの櫂を手に取った。長年使い込み、掌の皮と一体になるほどに馴染んだ、相棒ともいえる櫂。その重みが、今は己の敗北の重さのように感じられた。彼は源次の舟に自らの舟を寄せると、その前に進み出た。
手下たちが、悔しげに、そして心配そうに「親方…!」「まだだ、まだ勝負は…!」と声をかけるが、彼はそれを手で制した。その顔には、悔しさよりも、むしろ自らの限界を知り、自分を超える存在を目の当たりにした者だけが浮かべる、清々しさにも似た諦観が浮かんでいた。
彼は、舟の上から、源次に向かって深く、深く頭を下げた。その背は丸まり、まるで長年背負ってきた誇りという名の重い荷物を、今ここで下ろしたかのようだった。
「……あんたの勝ちだ。参った。俺の負けだ」
その潔い敗北宣言に、それまで熱狂に包まれていた浜辺の喧騒が、ぴたりと止んだ。湖の主が、挑戦者に膝を折ったのだ。その衝撃的な光景を、誰もが息をのんで見つめていた。潮風の音だけが、やけに大きく響いている。
源次は、その言葉を静かに受け止めた。彼は、勝利の鬨の声を上げることも、権兵衛を嘲笑することもしなかった。ただ、遥か遠く、井伊谷の方角の空を見つめている。その横顔は、この小さな勝利の先にある、さらに大きな戦いの海図を描いているかのようだった。
次に彼がどう動くのか。敗者となった権兵衛を、どう処遇するのか。浜辺も湖上も、全ての視線が、この若き軍師、源次ただ一人に注がれていた。