第233節『たった一度の網』
第233節『たった一度の網』
目標ポイントに到着した源次の舟は、まるで岩礁に吸い込まれるかのように、ぴたりと動きを止めた。周囲は複雑に入り組んだ岩と、渦を巻く潮の流れ。一歩間違えれば座礁し、舟ごと海の藻屑となる危険な場所だった。井伊の若者たちは、ごくりと唾を飲み込み、指揮官の次の言葉を待つ。
「網を打て!」
源次の号令は、短く、しかし鋼のように硬質だった。
井伊の若者たちは、これまで溜めてきた全ての力を込めて、あの手製の奇妙な形の大網を、湖へと投じた。それは、たった一度きりの、全ての勝敗を決する一投だった。網は美しい放物線を描き、源次が示したただ一点へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
その頃、権兵衛の舟は、全力でその後を追っていた。
「漕げ! 漕げ! あの侍どもに追いつくんだ!」
権兵衛の怒声が飛ぶ。だが、彼らの舟は大漁の魚で重く、思うように速度が上がらない。しかも、源次が進んだ岩礁地帯は、彼ら熟練の漁師ですら危険すぎて普段は決して近づかない場所だった。
「親方! これ以上は危険です! 座礁しちまいます!」
「うるせえ! 行けるところまで行くんだよ!」
権兵衛の目には、焦りと、そして自分たちの常識を超えていく源次への畏怖が浮かんでいた。
やがて彼らは、源次の舟が網を引き上げ始めるのを目の当たりにした。
「あの網で何ができる。あれは、川で使うような小網じゃねえか」
「そうだ。あの場所は根掛かりして、網を駄目にするだけだ。素人が考えることは……」
手下たちが侮りの言葉を口にするが、権兵衛だけは黙っていた。彼の漁師としての勘が、何かとてつもないことが起ころうとしていると告げていた。
最初は手応えがなかった。網は、まるで水中の木の葉のように軽く、するすると手繰り寄せられてくる。
「軍師殿…何も…かかっておりませぬ」
舟の上の若者の一人が不安げに呟く。その声は、追いついてきた権兵衛たちの耳にも届いた。「見たことか、だから言わんこっちゃねえ」と手下の一人が笑う。
だが、源次は「まだだ! もっと引け!」と叫んだ。
その声と同時だった。
網が、とてつもない力で水中に引きずり込まれた。舟が大きく傾き、縁に立っていた若者たちが悲鳴を上げて湖に落ちそうになる。
「ひ、引け! 全員で引けぇ!」
源次の絶叫が湖上に響き渡る。若者たちは必死に網に食らいつく。腕の筋肉が断裂しそうなほどの、尋常ではない重さ。舟はきしみ、今にも転覆しそうだった。
「な、なんだこれは! 竜でもかかったのか!?」「網が…網が破れそうだ!」
(来た……! 来たぞ! 読み通りだ! この重さ、この手応え! 間違いない!)
源次の胸に、歓喜と興奮が爆ぜた。彼は自らも網の端を掴み、歯を食いしばってその途方もない力と拮抗した。