第230節『静かな戦い』
第230節『静かな戦い』
浜名湖の沖は、静まり返っていた。
浜辺の喧騒は遠ざかり、聞こえるのは時折空を渡る水鳥の鳴き声だけ。秋の陽光は暖かく、湖面は穏やかで、これから繰り広げられるのが男たちの誇りを賭けた勝負であることを忘れさせるほど、平和な時間が流れていた。
だが、その水面下では、静かな、しかし激しい戦いがすでに始まっていた。
権兵衛の舟は、熟練の漁師たちが操る地引き網を、絶妙な連携で広げていく。
「網を降ろせ!」「右だ、もっと右に寄せろ! 潮裏に回り込め!」「今だ、引けぇ!」
権兵衛の腹の底からの怒声が飛ぶ。彼の長年の経験と勘は、魚の群れが通る道を正確に捉えていた。櫂を操る者、網を引く者、魚を追い込む者。十人の男たちが、まるで一つの生き物のように連動し、一切の無駄なく動く。
やがて引き上げられた網の中では、銀色の鱗を持つおびただしい数の魚が、生命力に満ち溢れて跳ねていた。舟の上の魚は、みるみるうちに山を築いていった。
一方、源次の舟は、いまだ湖の中央で静かに漂うだけだった。櫂は水から上げられ、兵たちはただ指揮官の次の言葉を待っている。
その対照的な光景に、浜辺で見守る漁師たちの間では、もはや勝敗が決したかのような会話が交わされていた。
「おい、見たか親方の網さばきを。寸分の狂いもねえ。あれこそ神業だ」
「ああ。それに比べて侍様たちの舟よ。ただぷかぷか浮いてるだけじゃねえか。戦意喪失ってやつだろ」
「違いねえ。親方の腕を見せつけられて、諦めちまったんだ。だらしねえ」
若い漁師たちが嘲笑する中、一人の老漁師が、腕を組んで静かに首を振った。
「……いや、違う」
「何が違うんだ、爺さん」
「あの侍……源次とか言ったか。あの男の目を見てみろ。諦めちゃいねえ。それどころか、まるで湖の底まで見通すような目で、何かをじっと待っている」
別の漁師が、その言葉に続く。
「待っている、だと? 一体何をだ。魚の群れはとっくに親方たちが囲い込んでる。もうここには残っちゃいねえよ」
「魚じゃねえ」と老漁師は言った。「あの男が見ているのは、魚じゃねえんだ。風だ。雲だ。そして……潮だ。まるで、湖そのものと話でもしているかのようじゃ」
「潮……? まさか、この穏やかな昼間に潮が動くとでも言うのか?」
「さあな。じゃが、もし本当にあの男に潮の流れが見えているとしたら……そいつはもはや、ただの人間じゃねえ。湖の神様か何かだ」
その言葉に、若い漁師たちは「馬鹿な」と笑った。だが、彼らの目にも、湖上で微動だにせず沖を見据える源次の姿が、どこか人ならざるもののように映り始めていた。
権兵衛の圧倒的な実力の前に、挑戦者は為す術もなく立ち尽くしている――誰もがそう確信しながらも、心のどこかで奇妙な胸騒ぎを覚えていた。浜辺は、勝利を確信する騒がしさと、得体の知れないものへの畏怖が入り混じった、異様な空気に包まれていた。