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第23節『伏兵の気配』

第23節『伏兵の気配』

「中央を突破する! 一気に突き崩せ!」

中野直之の声が、矢雨の轟きに負けじと戦場に響き渡った。

その瞬間、源次の全身を冷たい汗が覆った。

兵士たちが「おおおお!」と鬨の声を上げ、どよめきに沸き立つ。

その熱気と反比例するように、源次の心臓は凍りつき、冷たく沈んでいった。

(駄目だ……それは罠だ! 史実通りだ……!)

中央が開いているのは偶然ではない。

両翼に伏兵が潜んでいる。

史書に記されていた、井伊軍が散々に打ち破られた敗走の光景。

それが、いま目の前で繰り返されようとしている。

(ここで突っ込めば……全員、死ぬ!)

だが、声が出ない。

喉の奥に張り付いた恐怖が、言葉を塞いでいた。

一介の足軽にすぎぬ自分が、指揮官の作戦に異を唱えるなど――。

そんなことはありえない。

いや、ありえてはならない。

出過ぎた真似をすれば、その場で斬り捨てられてもおかしくない。

(けど……! 黙っていたら……!)

脳裏で、二人の自分が激しくぶつかり合った。

「言え、言うんだ! 俺がやらなければ、みんな死ぬ!」

「いや、無理だ! 足軽が口を出せば即座に斬られる! 死ぬのはお前だ!」

どちらの声も真実だった。

周囲の喧騒は遠のき、自分の心臓の音だけが耳を支配する。

ドクン、ドクンと、鼓膜を破りそうなほどに大きく鳴る。

「源次……」

すぐ隣の重吉が、怪訝そうにこちらを見ていた。

だが、その視線すらも気づかぬほど、源次の意識は一点に収束していた。

直之が馬上で槍を掲げる。

振り下ろされれば、突撃の合図だ。

残された時間は、ほんの数秒。

(言え……言うんだ……! 死ぬのは怖い……けど……!)

全身から汗が噴き出す。

喉が焼け付くように乾く。

――そして。

「お待ちくだされっ!」

源次は、喉の底から声を絞り出した。

「それは罠でございます!!」

戦場の喧騒を切り裂くように、その叫びが響いた。

一瞬。

すべての音が止んだ。

兵士たちの視線が、一斉に源次に突き刺さる。

中野直之もまた、驚きに目を見開いた。

だが、それはすぐに冷酷な光へと変わった。

「……何を申した?」

馬上から見下ろすその眼差しは、鋭い槍の穂先のようだった。

源次の背筋が凍り付く。

「だ、だから……中央は罠にございます! 突撃なされば――」

「黙れ」

その一言で、源次の声は断ち切られた。

「雑兵ごときが、誰に向かって口を利いておる」

吐き捨てるような声音。

兵たちの間に、嘲笑が走る。

「ははっ、漁師上がりのくせに……」

「命が惜しくて震えてやがる」

中野直之は、なおも冷たく言い放った。

「分をわきまえよ。次はないぞ」

議論の余地など、一片もなかった。

それは軍律に裏打ちされた、絶対の宣告だった。

源次の全身から力が抜けた。

膝が崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえる。

「……」

声はもう出なかった。

ただ、心の中で叫ぶしかなかった。

(違う……! 本当に罠なんだ……!)

だが誰も聞かない。

誰も見ようとしない。

中野直之は、何事もなかったかのように再び槍を掲げた。

「者ども、続け! 敵の首を取れ!」

「おおおおお!」

鬨の声が轟く。

兵士たちが一斉に駆け出し、敵陣の中央へと殺到していく。

源次の横を、仲間が駆け抜けていく。

それは源次の目には、自ら死の顎へと飛び込む行列にしか見えなかった。

(ああ……終わった……)

絶望の色が胸を覆う。

だが、その直後。

(いや……まだだ! 俺だけでも……重吉さんだけでも生き残る!)

源次は盾を握りしめ、矢が飛んでくるであろう方向を睨んだ。

手に力を込めすぎ、血管が浮き出る。

絶望と覚悟がないまぜになったその顔は、すでに一介の足軽のものではなかった。

――やがて訪れる破滅を前に、ただ一人、未来を知る者として立ち尽くしていた。

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