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第228節『浜の掟』

第228節『浜の掟』

 夜が明け、浜名湖の湖面には朝霧が薄く立ち込めていた。東の空が白み始め、静まり返った浜辺には、ただ波の音だけが聞こえる。だが、その静寂は、これから始まる決戦を前にした、嵐の前の静けさだった。

 舞阪の浜辺には、すでに村中の漁師たちが集まり、固唾をのんでその時を待っていた。昨夜の熱狂は鳴りを潜め、代わりに、神聖な儀式に臨むかのような、厳粛な空気が場を支配していた。


 審判を務めるのは、浜で最も尊敬を集める三人の白髪の長老たち。彼らは浜の中央にむしろを敷き、その上にどかりと胡坐をかいている。その皺の深い顔には、長年この湖と共に生きてきた者だけが持つ、厳しい眼差しが宿っていた。彼らが下す裁定は、この浜においては領主の命令よりも重い。

 やがて、日の出の光が湖面の霧を黄金色に染め上げた瞬間、長老の一人が立ち上がり、朗々と声を張り上げた。

「刻限よし! これより、浜の掟に従い、舞阪の権兵衛と、井伊の源次殿による、漁の勝負を執り行う!」

 その声が、戦いの始まりを告げた。


 源次と権兵衛、それぞれが率いる十人の男たちが、二隻の大きな手漕ぎ舟の前に並ぶ。

 権兵衛の率いる漁師たちは、皆、屈強な肉体を持ち、その肌は潮風と陽光で黒々と焼けていた。彼らの目には、長年の経験からくる絶対的な自信と、挑戦者に対する容赦のない光が宿っている。彼らは黙って、しかし手際よく、自分たちの舟に使い慣れた網や漁具を運び込んでいく。その動きに一切の無駄はない。

「親方、何の心配もいりやせん。あの侍様たちに、本当の漁ってもんを教えてやりましょう」

「ああ。だが、油断はするな。相手は、ただの侍じゃねえ」

 権兵衛は、静かにそう答えながら、源次の方を一瞥した。


 対する井伊の若者たちは、その圧倒的な海の男たちの気迫の前に、完全に気圧されていた。彼らの顔は青ざめ、手足は緊張でこわばっている。舟に乗り込む足取りすら、どこかおぼつかない。

 その様子を見て、源次は彼らの背中を一人ひとり強く叩き、声をかけた。

「大丈夫だ。落ち着け。俺の言う通りにすれば、必ず勝てる」

 その落ち着き払った声に、若者たちはわずかに緊張を解き、こくりと頷いた。

「俺の目を見ろ。舟が揺れても、俺から目を離すな」


「両者、舟を出せ!」

 長老の号令が響く。

 権兵衛の舟は、熟練の船頭たちが操る櫂によって、滑るように湖面へと進み出た。

 一方、源次の舟は、若者たちの息が合わず、ぎくしゃくと、頼りなげに岸を離れた。

 その光景を見て、浜辺の漁師たちから失笑が漏れた。「おいおい、舟もまともに漕げねえのか」「勝負にならねえな」。

 浜で一人見守る新太は、その嘲笑に顔をしかめたが、源次は全く動じていなかった。

(笑わせておけ。今はそれでいい。……とは言ったものの、本当に大丈夫か? 策は立てた。だが、それを実行するのは、この俺の身体だ。頭では分かっていても、この手足が、俺の知る『理論』通りに動いてくれる保証はどこにもない。もし、この身体の『記憶』が、俺の『知識』を裏切ったら……?)

 自らの身体でありながら、完全には御しきれていない道具でもある。その奇妙な感覚が、冷たい不安となって胸をよぎる。だが、彼は懐に手を当て、そこに仕舞われた匂い袋の、かすかな温もりを確かめた。

(……いや、弱気になるな。俺は、直虎様に誓ったんだ。『最強の水軍を創る』って。あの人が信じてくれたんだ。俺が、俺のこの身体を信じなくてどうする!)

(勝つ。絶対に勝つんだ。この無謀な賭けに勝って、あの人を笑顔にしてみせる。そのためなら、この身体の記憶だろうが、未来の知識だろうが、使えるもんは何でも使ってやる!)

 彼は、推しへの想いを力に変え、静かに沖を見据えていた。侍と漁師の、そして組織と組織の誇りをかけた、静かな、しかし激しい戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。

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