第223節『頭領・権兵衛』
第223節『頭領・権兵衛』
「もっと良い条件を持って出直してこい」――その明確な拒絶の言葉を前に、交渉は完全に決裂した。新太が悔しげに唇を噛み、「ここまでか…」と呟いた、その時だった。
「――まあ、待てや」
低い、しかし湖の底から響くような重い声が、その場の空気を一変させた。
声の主は、権兵衛。舞阪を拠点とする、この浜名湖で最大の漁師集団を率いる頭領だった。彼は、これまで少し離れた場所で腕を組み、黙ってやり取りを見つめていたが、ついに重い腰を上げたのだ。
彼がゆっくりと歩みを進めると、漁師たちは引き潮が砂浜を現すかのように左右に分かれて道を開けた。その一挙手一投足に、この男が浜の者たちから絶対的な信頼と畏怖を集めていることが見て取れた。
「権兵衛親方……」
村長が、わずかに狼狽したように彼の名を呼ぶ。
権兵衛は村長の肩を無骨な手で軽く叩き、「おめえさんの言うことは、一つも間違っちゃいねえ。侍なんぞ、信用できるもんか」と頷いた。そして、彼は源次の前に立つと、その鋭い目で、値踏みするように頭のてっぺんから爪先までをじろりと眺めた。その目は、魚の良し悪しを見極める時の、熟練した漁師の目だった。
「だがな」と彼は続けた。「この源次殿は、ちいとばかし、そこらの侍とは違うのよ。この人からは、血の匂いじゃなく、潮の匂いがする」
権兵衛は、以前源次と会った時のことを、集まった漁師たちに語り始めた。
「このお人はな、俺の網の結び方を見ただけで、俺がどこの漁場で漁をしているかを見抜きやがった。そして、その上で、もっと潮の流れがきつい場所で使うための、俺も知らねえ『鎧結び』を教えてくれた。あれは、ただの侍にできる芸当じゃねえ。本物の海の男の目を持っていなきゃ、できねえことだ」
その言葉に、漁師たちの間にどよめきが走った。権兵衛親方に、漁の技を教えた侍がいる。その事実は、彼らの常識を覆すには十分だった。
「だから、話くらいは聞いてやるのが筋ってもんだ。どうだい、源次殿。こいつらを納得させられるだけの、何か面白い土産話でもあるのかい? 魚一匹釣れねえような侍の話じゃ、誰も聞く耳持たねえがな」
権兵衛の言葉は、源次に助け舟を出すと同時に、彼に「お前が本当に我らの仲間たり得る男か、本気を見せてみろ」と迫る、厳しい問いかけでもあった。彼は源次個人に興味を抱いている。だが、仲間たちの命を預かる頭領として、軽々しく侍の側に付くわけにはいかないのだ。
(……なるほどな。この人は、ただの頑固者じゃない。頭領として、仲間を守る責任を背負っている。だからこそ、俺が本当に信じるに足る男か、仲間たちの前で試そうとしているんだな。理屈じゃない、魂で通じ合えるかどうかを)
源次は、権兵衛のその深い意図を理解した。
「土産話はありません」と源次は静かに言った。「ですが、難しいお願いがあることは承知しております。侍を信じろと言っても、無理な話でしょう。だからこそ、ここへ来たのです、権兵衛殿」
彼は、ただ権兵衛一人を見つめて、言葉を続けた。
「この話、お引き受けいただくのは難しいことでしょう。大波に向かう舟のように、危険な賭けであることも。それでもなお、私が諦めずにここに来た理由を、あなたにならご理解いただけるかと思いまして」
それは、他の漁師たちではなく、同じく「組織を率いる長」である権兵衛ただ一人に向けられた、魂の問いかけだった。井伊家という舟を背負う自分と、漁師集団という舟を背負うあなた。我らは同じ船頭ではないか、と。
権兵衛は、その言葉の重みに、しばし黙り込んだ。目の前の男は、侍の言葉ではなく、海の男の言葉で語りかけてきている。その事実が、彼の心を強く揺さぶった。