第222節『侍への不信』
第222節『侍への不信』
「お待ちくだされ!」
背を向けようとする村長を、源次は必死に引き止めた。
「あなたの言うことは分かる。だが、このままでは武田が来た時、この村も無事では済まない! 我らと手を組むことが、結果的にあなた方の暮らしを守ることにも繋がるのです!」
その焦りを帯びた言葉に、村長はゆっくりと振り返った。その目は、憐れみと、そして深い怒りを湛えていた。
「……侍様は、何も分かっておらん」
村長は、源次の後ろに控える新太の、いかにも武人然とした姿を一瞥すると、堰を切ったように語り始めた。
「我らがなぜ、あんたがたを信じないか、教えてやろう。侍様方は、いつでもそうだ。最初は甘い言葉を並べ立てる。じゃが、いざ戦が終わればどうだ。獲れた魚の半分以上を『戦勝祝い』だの『兵糧米の代わり』だのと、理不尽な理由をつけて召し上げていく!」
その言葉に、周りを囲んでいた漁師たちも次々と同調する。
「そうだ! 去年の秋も、徳川の役人が来て、一番良い船を『借り受ける』と言って持っていったきりだ!」
「今川の時代はもっと酷かった。若ぇ者は皆、水夫として無理やり徴用され、帰ってきたのは半分もいねえ!」
「井伊の侍だって同じことよ!」と、一人の老婆が鋭い声で割って入った。「先代様(直盛)の頃、桶狭間の戦の前に、うちの亭主も人足として連れていかれた。だが、帰ってきたのは、ただの木の箱だけだったわい!」
老婆の言葉だけは、芝居ではなかった。本物の痛みと悲しみが、源次の胸を抉るように痛んだ。歴史書には記されない、一行の記述の裏にある無数の悲劇。その一つが、今、生々しい現実として目の前に突きつけられている。
(そうか……。俺が背負っている井桁の紋は、彼らにとっては信頼の証ではなく、ただの搾取者の印の一つなんだ)
新太もまた、黙ってその言葉を聞いていた。武田にいた頃、彼はただ力で国衆を従わせることしか知らなかった。だが、目の前の民は、力だけでは従わない。その深い傷と不信を前に、彼は自らの無力さを感じていた。
「我らは、もう誰の言葉も簡単には信じない。お引き取りくだされ、井伊の軍師様とやら。もっと良い条件を持って出直してくるんだな」
村長はそう言うと、深く頭を下げた。それは敬意ではなく、これ以上安い交渉には応じないという、明確な意思表示だった。
交渉は、始まる前に終わろうとしていた。源次は、初めて本当の意味での「民」という、巨大で、賢く、そして傷ついた壁の前に立たされていることを痛感した。