第22節『戦場の空気』
第22節『戦場の空気』
谷間に広がる戦場は、すでにただの地形ではなく、一面に死の気配を孕んだ舞台へと姿を変えていた。
敵軍は、こちら側の視界を埋め尽くすように布陣している。
遠目にも赤々と燃えるような甲冑が並ぶ。旗指物の林が、谷風に揺れる。
数で言えば、明らかにこちらが劣る。だが、それ以上に源次の心を圧したのは、数千人という兵が一つの生き物のようにまとまって蠢く、その異様な圧力だった。
「……でけぇ」
隣の足軽が、思わず呟いた。声は震えていた。
源次自身も、喉が張りつき、言葉が出ない。
目の前の軍勢が、まるで巨大な黒い壁となって、じわじわとこちらの息を詰まらせてくる。
知識としては理解していた。武田軍の赤備えが恐怖の象徴であったことも、数の優位で敵を圧殺する戦法も。
だが今、その光景は書物の一節などではなかった。
赤と黒の波が、ただ黙して待機しているだけで、谷間の空気を異様に重くする。
風が止まっていた。
鳥の声もない。
ただ鎧の板が擦れ合う「きしり」という微かな音と、兵たちの荒い呼吸音だけが、耳に届いていた。
源次は、自分の膝がかすかに笑っていることに気づく。
隣を見ると、虚勢を張っていたはずの若い足軽が顔面蒼白となり、唇をかすかに震わせていた。
さっきまで「敵を斬って手柄を立てる」と豪語していた男だ。その面影はすでになく、ただ恐怖に呑み込まれた人間の顔だけがそこにあった。
「……これが、本物の戦場か」
心の中で呟いた。
書物で読んだどんな戦記の記述よりも、この沈黙のほうがよほど恐ろしい。
音がない。声がない。
ただ、次の瞬間に訪れる「地獄」を全員が待っている、その緊張だけが空気を張り詰めていた。
──その静寂を最初に破ったのは、敵陣だった。
「オォォオオオオオオオ――ッ!」
地の底から這い上がるような、獣じみた咆哮が谷を震わせた。
数千の喉が一斉に唸る。
それは人の声というより、もはや人ならざるものの怒号だった。
意味などない。ただ「殺す」という意志だけを凝縮した音の奔流。
その瞬間、源次の背筋が粟立った。
本能が、あの声は「人間の声」ではないと告げていた。
「うわ、ひっ……!」
何人かの井伊の足軽が、腰を抜かし、その場に尻をついた。
鎧の金具が地面に当たる乾いた音が、かえって惨めさを強調する。
「返せ! 鬨の声を返せ!」
指揮官たちの怒号に押されるように、井伊軍も声を張り上げた。
「オオオオオオオ!」
だが、その声は頼りなかった。
数でも音量でも、完全に押し負けている。
声がぶつかり合った瞬間、源次にははっきりと分かった。
井伊軍の鬨の声は、相手の轟きの中に飲み込まれ、かき消されていく。
「数で……圧殺されてる」
心の奥でそう呟いた時、敵陣に再び変化が起こった。
ドン……ドン……
太鼓の音が鳴り響く。
次の瞬間、足元から地が揺れ始めた。
数千の足軽が、一斉に地面を踏み鳴らしたのだ。
振動が、土を伝い、源次の足首から内臓までを揺さぶる。
地面そのものがうなっている。
「やめろ……やめてくれ……」
誰かが呻く声が聞こえた。
だが、敵は止まらない。
太鼓と地響きと咆哮が重なり合い、音そのものが暴力となって襲いかかってくる。
耳を塞いでも意味はない。
鼓膜だけではなく、胸や腹の奥から震えが突き上げてくる。
「知識じゃない……」
源次の口から、思わず漏れた。
「これは……暴力だ。音と振動だけで、人の心を折りに来ている……!」
戦は、理屈の戦いではなかった。
生き物を狂わせ、理性を粉砕するための、圧倒的な「威圧」の儀式だった。
ヒュン――
鋭い風切り音が、頭上をかすめた。
源次が顔を上げたとき、空に一本の矢が舞い上がっていた。
先端に鏑を付けた合図の矢だ。
ヒュルルルル――
甲高い音を響かせながら、空を裂く。
そして、敵陣からも同じように鏑矢が放たれる。
二本の矢が空で交錯し、鳴音を重ねて戦場に響き渡った。
それが、開戦の合図だった。
次の瞬間――
「ヒュッ! ヒュルルルル!」
空が黒く染まった。
数百、数千の矢が、一斉に放たれたのだ。
「来る!」
源次は反射的に木の盾を構え、身を屈める。
ドスッ! ガンッ!
矢が盾に突き刺さる音が、耳元で炸裂する。
木が裂け、鉄の鏃が食い込む衝撃が腕に伝わってくる。
「うっ……!」
盾越しに振動が骨を震わせ、息が詰まる。
そのとき――
すぐ隣から、短い呻き声が聞こえた。
「ぐっ……」
源次が顔を向けると、さっきまで軽口を叩いていた仲間の足軽が、喉に矢を受けて倒れ込んでいた。
喉を貫いた矢の周囲から、泡立つ血が噴き出す。
口から洩れる息が「ぐぼ……ぐぼ」と泡を吹き、瞳から焦点が失われていく。
「うあ、あぁ……」
源次の胃がひっくり返りそうになった。
初めて、真正面で「人の死」を見た。
血の匂いが鼻を突き、鉄のような生臭さが肺を満たす。
理性も、知識も、今まさに崩れ落ちようとしていた。
(吐くな……ここで吐いたら……死ぬ!)
必死に喉を押さえ込む。
だが、全身の震えは止まらない。
「……周りを見ろ」
脳裏に、重吉の声が甦った。
その言葉にすがるように、源次は顔を上げる。
矢の雨が降り注ぐ中、敵陣を観察する。
そして、気づいた。
(……おかしい)
敵は大軍だ。だが、その中央の布陣が妙に薄い。
旗指物の数が、左右に比べて明らかに少ない。
(あれだけの数がいながら、中央の守りが手薄だ……?)
まるで「こちらを誘い込んでいる」ように。
「好機ぞ!」
前方から中野直之の声が轟いた。
馬上で槍を掲げ、声を張り上げる。
「中央を突破する! 一気に突き崩せ!」
兵たちがどよめく。
だが、源次の胸に走ったのは戦意ではなかった。
「違う! それは……!」
頭の中で史実の記憶が蘇る。
罠だ。
史書に記された井伊軍の敗北が、今まさに再現されようとしている。
(止めなければ……! このまま突っ込めば、俺たちは全滅する!)
胸を焦がすような焦燥感が、全身を駆け巡った。
だが声はまだ、喉に張りついて出てこない。
矢の雨の轟きの中で、源次の心臓だけが異様に大きな音を立てていた。