第219節『最初の予算』
第219節『最初の予算』
井伊水軍創設の決断が下された評定の直後、源次は早速、城の奥にある財政を司る帳場へと足を運んでいた。広間には、埃っぽい帳簿の山と、乾いた墨の匂いが満ちている。その中心で、財政を預かる家老・小野政次は、苦虫を噛み潰したような顔でそろばんを弾いていた。彼は、評定で源次が語った「富を生む」という言葉を信じてはいたが、それは未来の話。今、彼の目の前にあるのは、戦で空になった蔵と、日々の兵糧にすら事欠く厳しい現実だけだった。
「小野殿。水軍創設のための予算、早速にでも工面していただきたい」
源次の単刀直入な申し出に、小野は弾いていた指を止め、大きなため息をついた。その息は、空になった蔵の寒々しさを物語っているようだった。
「軍師殿。ですから、金はないと申し上げておるのです。蔵は空。民からこれ以上搾り取ることもできませぬ。評定で決まったからとて、ない袖は振れませぬぞ。それとも何か、この小野に銭を生み出す神通力でもあるとでもお思いか」
その声は、皮肉と非難、そして何より財政を預かる責任者としての悲痛な響きを帯びていた。
「承知しております。神通力などとは思いませぬ。むしろ、この何もない状況で家計をやりくりされておられる小野殿の手腕には、頭が下がるばかりです」
源次はまず、彼の労をねぎらう言葉をかけた。その意外な言葉に、小野の険しい表情がわずかに和らぐ。
「ですが、評定で決まった以上、動かねばなりませぬ。三百貫全てを今すぐとは申しません。まずは船一隻を造る材木代と、徳川から来ていただく船大工たちへの手当だけでも。井伊家の、なけなしの財産からで構いませぬ。形だけでも始めなければ、何も始まりませぬ故」
その真摯な眼差しと、大きな構想とは裏腹の現実的な第一歩の提案に、小野は観念したように頷いた。
「……分かり申した。そこまで言われては、この小野、無い知恵を絞るしかありますまい。直虎様に言上し、なんとか算段をつけましょう。ただし、これ以上は一文たりとも出せませぬぞ。あとは軍師殿、あなた様が言う『海の富』とやらで賄ってくだされ」
「それで、結構にございます。必ずや、この借りは何倍にもしてお返しいたします」
数日後、源次の前には、桐の箱に納められたわずかばかりの金子が置かれていた。それは、直虎が自らの嫁入り道具であったであろう美しい着物や装飾品を密かに売り払い、中野直之ら家臣たちが自らの禄を削ってまで捻出した、まさに井伊家の「血」とも言うべき金だった。
小野政次が、その箱を源次の前に置き、深々と頭を下げた。
「軍師殿。これが、今の井伊家が出せる全てにございます。お納めくだされ」
源次は、その金子の重みを掌で感じながら、静かに頭を下げた。冷たい金属の感触が、関わった人々の体温を持っているかのように感じられた。
(……これが、俺たちの始まりだ。この金で、必ずや何倍もの富を生み出し、皆に返してみせる。あんたたちの覚悟、俺が必ず未来に変えてみせる。見ていてくれ、直虎様。あなたの涙の価値は、天下の財宝よりも重い。この金は、その涙の結晶だ。決して無駄にはしない)
井伊水軍創設のための最初の予算。それは金額以上に、家中すべての者たちの期待と覚悟が込められた、あまりにも重いものだった。源次は、その重みを胸に刻みつけ、浜名湖のほとりに小さな造船所を築くための第一歩を踏み出した。この小さな予算が、やがて井伊家の運命を大きく変える源流となることを、まだ誰も知らなかった。