第218節『源次の真意』
第218節『源次の真意』
評定が終わり、家臣たちがそれぞれの持ち場へと退出していく中、中野直之だけが源次のもとに残った。彼は、まだどこか腑に落ちないという顔で、腕を組み、源次に問いかけた。
「源次殿。新太殿の武勇は認める。彼への信頼も、今や儂も同じ思いだ。だが、それでも問わせてくれ。なぜ、彼なのだ。儂や、他の井伊の譜代の者を差し置いてまで、彼に船手頭を任せる真の狙いは何だ。儂には、ただの適材適所とは思えぬ」
それは、侍大将として、そして井伊家の将来を憂う者としての、率直な疑問だった。彼の目には、源次の人選の裏に、何か別の意図があるのではないかという、鋭い洞察力が光っていた。
源次は、周囲に人がいないことを確かめると、中野を縁側へと誘った。秋の庭園が、静かに夕暮れの色に染まっている。
「中野殿。あなた様は、井伊の陸を守る、我らが大黒柱です。揺るぎない岩の如き存在。そのあなた様が陸を離れるわけにはいかない。それが第一の理由です」
その言葉に、中野はわずかに表情を和らげた。源次が自分の役割を深く理解し、尊重してくれていることが伝わったからだ。
「そして、第二の理由。それこそが、私の真の狙いにございます」
源次の目が、鋭く光る。
「新太殿を慕って我らに降った、弥助殿をはじめとする元武田の兵たち。彼らは確かに精強です。ですが、今はまだ、新太殿個人への忠誠で繋がっているに過ぎない。もし新太殿の身に何かあれば、彼らは再び行き場を失い、我らにとって危険な存在となりかねない。そうは思いませぬか」
「……つまり」
中野の喉が鳴った。
「はい。彼らを、新太殿を頭とした一つの『部隊』として正式に組織し、井伊水軍の中核に据える。そして、井伊家のために手柄を立てさせ、恩賞を与える。そうすることで、彼らを新太殿個人への忠義から、井伊家そのものへの忠義へと、塗り替えていくのです。彼らを、名実ともに『井伊の武士』とする。それこそが、私の真意にございます。新太殿を船手頭とすることは、彼ら全員を井伊家に取り込むための、最も確実な一手なのです」
その深謀遠慮に、中野は息を呑んだ。源次は、ただ水軍を創設するだけでなく、その過程で、家中の不安定要素であった降将たちを、完全に掌握し、取り込もうとしていたのだ。それは、武勇や恩賞といった武士の常識ではなく、組織論に基づいた、あまりに現代的で冷徹な人心掌握術だった。
「……恐ろしい男よ、おぬしは。人の心までをも、盤上の駒のように動かすか」
中野は、感嘆とも畏怖ともつかぬ声で呟いた。
「褒め言葉として受け取っておきます」
源次は、静かに笑った。
(俺のやり方は、この時代の武士には理解しがたいだろう。だが、これが最も血が流れず、誰もが幸福になる道なんだ。直虎様が創ろうとしている、新しい井伊家のためにな)
彼の視線は、すでに遥か先の未来、新太隊が井伊家にとってなくてはならない存在となった、盤石の組織図を見据えていた。