第217節『新太の役割』
第217節『新太の役割』
水軍創設が正式に決定した直後の評定。熱気さめやらぬ広間で、源次は休む間もなく、すぐさま具体的な人事案を提出した。その巻物を、直虎が受け取り、居並ぶ家臣たちの前で読み上げる。
「――井伊水軍の総指揮を執る『総奉行』は、軍師・源次が務める」
その人選に、家臣たちは静かに頷いた。この壮大な計画の発案者であり、徳川との繋がりを持つ彼以外に適任はいない。だが、直虎が読み上げた次の名前に、広間は再びどよめいた。
「そして、現場で兵を鍛え、船団を率いる『船手頭』には……新太を任命する!」
元武田の将に、井伊家の新たな力の根幹を委ねるというのか。先の戦での武功は誰もが認めるところ。だが、まだ井伊家に来て日の浅いよそ者に、それほどの大役を任せてよいものか。ざわめきの中に、かすかな不安が混じる。「なぜだ」「いくらなんでも早すぎるのではないか」。そんな囁き声が、広間の隅々から聞こえてきた。
源次は静かに立ち上がり、その不安の声を鎮めるように説いた。
「皆様の懸念はごもっとも。されど、この人選こそが、井伊水軍を最強たらしめるための、唯一の道にございます」
彼は、その場に控えていた新太へと視線を送る。
「新太殿の武は、陸よりもむしろ、予測不能な揺れる船の上でこそ真価を発揮します。馬のような足場ではなく、己の体幹こそが彼の力の源泉ゆえ。陸の戦に慣れた我らの兵よりも、遥かに早く海の戦いに適応できるでしょう」
彼はさらに続ける。
「そして何より、彼が率いる者たちは、我ら以上に武田を知り尽くしている。彼らこそ、水軍の最高の刃となりましょう。新太殿、この大役、引き受けてはくれぬか」
それは、単なる命令ではなかった。源次から、友である新太への、絶対的な信頼を示す問いかけだった。
新太は、ゆっくりと立ち上がると、広間の中央に進み出た。彼はこれまで、自らの出自について公の場で語ることはなかった。だが、今は違う。彼は、井伊家の一員として生きる覚悟を決めていた。
彼は、上座に座す直虎の前に膝をつき、深く頭を下げた。
「この新太、元は武田の者。皆様が不安に思われるのも当然のこと。されど、我が命は源次殿に救われ、我が居場所はこの井伊谷にこそあると心得ております」
彼は顔を上げ、広間の家臣たちを一人ひとり見渡した。
「この命、井伊家のために使うことを、ここにお誓い申し上げます。船手頭の大役、謹んでお受けいたしまする」
その力強く、誠実な言葉に、家臣たちの最後の不安も消え去った。
直虎は、満足げに頷いた。「許す。新太、そなたの槍に、井伊の海の未来を託すぞ」
新太は、武士として新たな役割と居場所を与えられたことに、静かに、しかし深く感謝し、再び頭を垂れるのだった。その背中には、もはや過去の亡霊に囚われた影はなかった。――だが、その胸の奥底では、かつて所属した武田の軍と、これから掲げる井桁の旗の重さが、まだ複雑に絡み合っていた。