第216節『直虎の決断』
第216節『直虎の決断』
全ての議論が、出尽くした。
評定の間は、水を打ったような静寂に包まれている。家臣たちは皆、言葉を失い、ただ上座に座す若き主君の裁定を待っていた。これまで噴出していた反論も懸念も、源次が示した緻密な計算と、徳川家康という抗いがたい後ろ盾の前では、もはや意味をなさなかった。だが、それでもなお、この決断が井伊家の未来を根底から変える、あまりにも大きな賭けであることに変わりはない。その最後の重圧が、広間にいる全員の肩にのしかかっていた。
直虎は、その全てを静かに受け止めていた。彼女はゆっくりと玉座から立ち上がると、家臣一人ひとりの顔を見渡した。小野の懸念も、そして中野があえて演じてみせた厳しい反発も、その全てを領主として受け止めた上での、静かな、しかし鋼のような決意がその瞳には宿っていた。
(……中野。そなたの見事な芝居、しかと見届けたぞ。これで家中も、ようやく一つの舟に乗る覚悟ができたようじゃな)
「皆、聞いたな」
その声は、凛として、しかし温かい。
「中野の言う、山の民としての誇りも、小野の言う財政の懸念も、全て尤もじゃ。この決断が、我らにとってどれほど大きな賭けであるか、わらわも重々承知しておる」
彼女は一度、言葉を切った。その視線が、広間の中央に立つ源次を真っ直ぐに捉える。
「じゃが」
声の調子が変わった。それは、もはや家臣たちに問いかけるものではなく、井伊家の未来そのものに向けられた、揺るぎない宣言だった。
「わらわは、源次の描く未来に賭ける! 我らは陸に縛られ、ただ武田の脅威に怯え、滅びを待つのではない。この手で新たな道を切り拓き、自らの力で未来を掴むのだ! 井伊は、陸だけでなく海からも立つ!」
その高らかな最終決断に、家臣たちは一斉に平伏した。そこにはもはや、反対も不信もなかった。ただ、領主が示した未来へ向かう、一枚岩の覚悟があるのみだった。
中野直之は、自らの役目が果たされたことを悟り、この若き領主と軍師が率いる井伊家の、底知れない可能性に武者震いを覚えていた。小野政次もまた、これほどの壮大な計画の財政を担うという、前代未聞の挑戦に、不安と興奮が入り混じった表情で深く頭を垂れた。彼らの心は、決まったのだ。
(……勝った。いや、勝たせてくれたのか、直虎様)
源次は、平伏する家臣たちの中で、ただ一人、上座に立つ主君の姿を見上げていた。
(あなたが信じてくれたから、俺はここに立てる。この信頼に応えるためなら、俺はどんなことでもやってみせる。この井伊谷を、日の本一豊かな国にしてみせる……! あなたが、心から笑える日のために!)
井伊家が、陸の民から海の民へという、新たな挑戦に乗り出す瞬間だった。それは、ただ生き残るためではない。自らの手で未来を掴み取るための、大いなる船出であった。評定の間に差し込む光が、まるで新しい時代の夜明けを告げているかのようだった。