第214節『数字という武器』
第214節『数字という武器』
「そんな金があるなら、足軽の一人でも多く雇い、槍の一本でも多く揃えるべきとも思えるが。陸の守りを固めることこそが、今我らが為すべきことだろう。違うか」
中野直之の発言は、評定の間を強く支配した。彼の言葉は、井伊家の武士たちが心の底で抱いていた不安と本音を代弁していた。そうだ、我らの戦場は山であり、谷だ。船の上で溺れるためにいるのではない。家臣たちの間から、そうだそうだと力強い同意の声が上がる。源次の「三つの利」で傾きかけた空気は、再び大将としての圧倒的な経験則と現実論の前に、押し戻されようとしていた。
「中野殿のお気持ち、痛いほど分かります。私も元は漁師。陸の戦の恐ろしさは、身をもって知っております。ですが」
源次は、彼らの感情的な反発に対し、さらに冷徹な「数字」という武器を突きつけた。彼は、この評定のために夜を徹して準備した、交易による利益の具体的な収支計算書を家臣たちの前に広げた。そこには、井伊谷で産出される木綿の原価、浜名湖から熱田湊までの輸送コスト、熱田での想定売価、そしてそこから得られる莫大な利益までが、素人目にも分かるように細かく記されていた。
「木綿十反を熱田へ運べば、米が百俵買えます。船一隻が年に十往復すれば、米千俵。それが十隻あれば、米一万俵。これは、井伊谷全体の年貢に匹敵する富です」
広間が、信じられないというどよめきに包まれた。今までこのような説明を受けたこともなく、概念のなかった者たちは呆気に取られた。これまで自分たちが汗水流して取り立ててきた年貢と、同じだけの富が、ただ布を運ぶだけで手に入るというのか。にわかには信じがたい話だった。
「この富があれば、我らは兵を新たに千人雇うことができる。鉄砲も百丁は揃えられましょう。中野殿、それでも船は戦の役に立たぬと仰せか? この富こそが、あなた方が守る陸の兵を、何倍にも強くするのです。金があれば、足軽は増やせるのです!」
その圧倒的な数字の前で、中野はあらためて言葉を失った。武士の誇りも重要だが、兵を養い、民を食わせる「金」がなければ国は成り立たない。彼の掲げた「足軽を増やすべき」という正論が、そっくりそのまま、しかし何倍もの規模になって返されたのだ。彼の価値観が、根底から揺さぶられた。
(なんと……。戦いの視点で海の道は可能性があるとは思った。だが、儂はそれしか見ていなかった。だがこの男は、それに必要な槍を生み出す『金』そのものを、海の向こうから呼び寄せようとしているのか……。これが、軍師の戦か)
源次は、最も厳しい目でこちらを睨む小野政次へと視線を向けた。
「小野殿。この数字をもってすれば、水軍は戦の道具であるだけでなく、井伊の蔵を黄金で満たす『宝船』となり得ます。それでもまだ、夢物語と仰せか」
小野政次は、信じられぬという顔でその計算書を睨みつけ、唇を噛んだまま黙り込んだ。彼の頭の中では、そろばんが目まぐるしく動いていた。輸送のリスク、相場の変動。あらゆる危険性を考慮しても、源次が示す利益は、あまりに魅力的すぎた。理屈では、もはや反論の余地がなかった。
源次は、夢物語を具体的な「金勘定」に落とし込むことで、彼らの反論を封じ込めたのだ。家臣たちは、ざわめきながらもその数字の持つ意味の大きさに気づき始めていた。井伊家が、全く新しい力を手に入れる可能性。その現実が、彼らの目の前に突きつけられていた。