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第213節『山侍の反発』

第213節『山侍の反発』

 源次が示した「三つの利」は、評定の間の空気を確かに変えた。財政を預かる小野政次は、腕を組んだまま深く唸り、若手の家臣たちの目には未来への希望の光が宿り始めていた。壮大な構想は、確かな論理によって、現実味を帯びてきたかに思えた。


 だが、その期待に満ちた空気を、一本の槍のように突き破る声があった。

「――待たれよ、源次殿」

 声の主は、中野直之。これまでの源次との密議を踏まえた上で、あえて評定の場で問題を提起しようとする、大将としての冷静な響きがあった。

「源次殿の申されることは分かった。富を生む理屈も、徳川様との駆け引きもな。だが、肝心要の『戦』はどうなのだ。儂らは山の武士だ。生まれてこの方、土の上でしか槍を振るったことがない。その儂らに、揺れる船の上で戦えと申すか。この点を皆が納得せねば、兵は動かぬ。どうか、皆に分かるようお示し願いたい」


 彼の言葉は、これまで黙って議論を聞いていた武断派の家臣たちの心に火をつけた。彼らは次々と立ち上がり、中野の問いに同調する。

「中野様の言う通りだ! 我らの戦場は山にあり、谷にあり!」「船酔いで満足に立てぬ兵が、どうやって武田の精鋭と渡り合えというのだ!」「話にならん!」

 彼らにとっては、富や外交以前に、自分たちがその「水軍」とやらで本当に戦えるのか、という点が最も重要だった。それは、自らの命を預ける現場の兵士としての、偽らざる本音だった。中野は、彼らの不安を代弁する形で、源次に説明を求めたのだ。


 中野はさらに言葉を重ねる。その声は、広間全体を震わせた。

「船なぞ、戦の役に立つものとは思えん。あのような不安定な足場で、どうやって陣形を組み、戦うのだ。我らが誇る武威も、船の上ではただの烏合の衆と化す。そんな不確かなものに金を注ぎ込むなど、愚の骨頂と思えるが」

 彼は、財政に口を挟む小野政次を見た。

「そんな金があるなら、足軽の一人でも多く雇い、槍の一本でも多く揃えるべきとも思えるが。陸の守りを固めることこそが、今我らが為すべきことだろう。違うか」


 そのあまりに現実的で、かつ武士としての本質を突いた正論に、先ほどまで源次の策に期待を寄せていた若手の家臣たちは、ぐっと言葉を詰まらせた。彼らもまた、槍働きを生業とする武士。揺れる船の上で本当に戦えるのかという根本的な問いに、有効な反論を見つけられなかったのだ。小野政次もまた、財政の観点から陸の軍備増強という確実な道と、水軍という未知の投資を天秤にかけ、頷いた。源次の前に、論理だけでは超えられない「山の民としての矜持」と「陸将としての経験則」という名の、最も手強い壁が立ちはだかったのだ。

(……中野さん。俺にボールを回してくれたか。この反発を、俺自身の手で乗り越えろと。……面白い。その期待、必ず応えてみせる)

 源次は、この最大の難関をどう乗り越えるか、思考を巡らせた。感情論でぶつかっては勝てない。ならば、彼らが最も信じる「現実」を、別の形で突きつけるしかない。


 直虎は、上座からその光景を静かに見守っていた。彼女は、中野の行動が源次を陥れるものではなく、わざと家中を一つにするために、あえて源次に説明の機会を与えたものであることを見抜いていた。

(……中野。そなた、面白い芝居を打つものよな)

 彼女の脳裏には、昨夜の密議で「儂も乗ろう!」と力強く宣言した彼の姿が浮かんでいた。構想には概ね賛成しているはずの彼が、なぜ今、最も強硬な反対者のように振る舞うのか。その真意を、彼女は瞬時に見抜いていた。

(ただわらわと源次に追従するだけでは、家中の心は真に一つにはならぬ。あえて反対意見を全て吐き出させ、その上で源次に論破させることで、皆を納得させようというのじゃな。……見事な采配じゃ)

 彼女は、源次がこの壁をどう乗り越えるのか、そして中野が描いたこの舞台がどのような結末を迎えるのか、その手腕を固唾をのんで見守っていた。井伊家が真に変われるかどうかは、この瞬間に懸かっているのだと。

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