第211節『評定の間、再び』
第211節『評定の間、再び』
明朝、勝利の熱狂もようやく落ち着きを取り戻した評定の間。家臣たちは、次なる武田の襲来に備え、いかなる軍備増強策が示されるのかと、固唾をのんで軍師・源次の言葉を待っていた。先の勝利で彼の知略への信頼は絶大なものとなっていたが、同時に、井伊家の財政と兵力が限界に近いことも、誰もが理解していた。広間には、期待と、それ以上に「これ以上どうしろというのだ」という、先の見えぬ不安が入り混じった空気が漂っていた。
その視線を一身に受け、源次は広げられた白紙の巻物の上に、次なる一手――誰もが予想だにしなかった計画の全貌を語り始めた。
「これより、井伊は海へ出ます! 井伊水軍を創設するのです!」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気は静まり返った。家臣たちは、そもそも「船」という言葉の意味をすぐには理解できず、ただ呆然と顔を見合わせるばかりだった。
やがて、その言葉の意味を理解した小野政次が、悲鳴のような声を上げた。
「ふ、船だと!? 軍師殿、ご冗談を! なぜ今、船なのですか! しかも予算三百貫とは! 先の戦で蔵は空! 我らにそのような大金がどこにあると申されるか!」
彼の言葉を皮切りに、家臣たちから一斉に困惑と反対の声が噴出した。
「そうだ! なぜ船なのだ!」「陸の守りを固めるのが先決であろう!」
広間は、瞬く間に収拾のつかない混乱の渦に包まれた。
その渦の中、これまで腕を組み沈黙を守っていた中野直之が、重々しく立ち上がった。家臣たちは、武断派の筆頭である彼が、当然この夢物語に反対の声を上げるだろうと期待の眼差しを向けた。
だが、彼が発した言葉は、全員の予想を裏切るものだった。
「――皆、静まれ」
低い声が、全てのざわめきを制した。
「儂も、最初に源次殿からこの話を聞いた時は、貴様らと同じことを思ったわ。夢物語だと。だがな」
彼は地図の前に進み出ると、源次の隣に立った。その行動自体が、無言の支持表明であった。
「源次殿。皆が納得できるよう、儂が問おう。まず第一に、その莫大な財源はどこにあるのだ。小野殿の言う通り、我らに金はないはず」
彼の言葉は、反対ではなく、議論を整理するための、冷静な問いかけだった。彼は、先の密議で源次と打ち合わせた通り、敢えて反対派の代弁者となり、源次に答えさせるための舞台を整えるという、「もう一人の軍師」としての役割を完璧に演じ始めたのだ。
家臣たちは、その光景に呆然としていた。中野直之が、源次の側に立っている。その事実が、何よりも雄弁に、この計画が単なる思いつきではないことを物語っていた。
(中野さん……完璧なアシストだ。これで、俺がただの夢想家ではないことを、皆に示せる)
源次は内心で頷くと、中野が作ったその流れに乗り、静かに口を開いた。
「財源は、海にこそございます……」
評定は、ここから源次と中野の二人によって、巧みに導かれていくことになる。物語は、次なる大きなうねりへと、確かな一歩を踏み出した。