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第210節『一枚岩の誓い』

第210節『一枚岩の誓い』

 静寂が、部屋を支配していた。蝋燭の炎が揺れ、壁に映る三人の影を揺らす。直虎と中野は、源次が示したあまりに壮大で革新的な未来図――軍略と経済を両輪とする国家戦略――を、まだ頭の中で処理しきれずにいた。

「商いで……国を強くする……」

 中野が、呻くように呟いた。武士として生きてきた彼の価値観が、根底から揺さぶられていた。戦とは、槍を合わせ、血を流すもの。銭勘定は商人の仕事。そう信じて疑わなかった自らの半生が、目の前の若者の言葉一つで、古い時代の遺物のように感じられたのだ。

「そのようなこと、本当に可能なのか」

 その問いは、疑いというより、むしろ藁にもすがるような響きを帯びていた。


「可能です」と源次は断言した。「そして、その道筋をつけるための一手は、すでに打ってあります」

 彼は、家康との繋がりについては、まだこの場では明かさなかった。それは、明日の評定の間で、反対する家臣たちを黙らせるための、最後の切り札として温存しておく必要があったからだ。


「源次、中野。二人の話はよう分かった」

 それまで黙って議論を聞いていた直虎が、静かに口を開いた。その顔には、もはや領主としての迷いはなかった。彼女は、二人の男が示した「武」と「知」、そして「現実」と「理想」の全てを受け止めた上で、自らが進むべき道を見定めていた。

「わらわは、源次の描く未来に賭ける。中野、そなたはどうじゃ。この途方もない舟に、儂と共に乗ってはくれぬか」

 それは、家臣への命令ではなかった。共に未来を創る、同志への問いかけだった。


 中野直之は、しばらく黙して地図を睨んでいた。彼の頭の中では、源次の言葉が渦巻いていた。陸の守り、兵の練度、武士の誇り。それら全てを投げ打ってまで、この若き軍師の夢物語に乗るべきなのか。だが、同時に、この策なくして井伊に未来はないことも、彼は痛いほど理解していた。

 やがて彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、吹っ切れたような、しかし大将としての責任感を失わない、厳しい光が宿っていた。

「……面白い。これほど胸の躍る戦は、生まれてこの方初めてやもしれぬ」

 彼は源次に向き直り、その肩を武骨な手で強く掴んだ。

「源次殿! 儂も乗ろう! この中野直之、井伊水軍創設という大方針に異論はない! 我が武の全てを以て、あなたの盾となろう!」

 その力強い宣言に、源次の胸が熱くなった。


 だが、中野は続けた。その声は、再び総大将としての厳しいものに戻っていた。

「しかし、源次殿。勘違いするな。儂が認めたのは、あくまで『海へ出る』という覚悟だ。具体的なやり方――兵をどう集め、金をどう工面するかについては、儂も井伊家重臣として、評定で厳しく物申させてもらうぞ。儂の預かる兵の命を、無駄にはできんからな」

 それは、完全な同意ではなかった。大枠には賛成するが、細部の計画については、専門家として徹底的に吟味するという、彼の立場を明確にする言葉だった。


(……それでいい。いや、それがいい)

 源次は、その言葉にむしろ安堵していた。無条件の賛同よりも、この実直な男からの厳しいチェックこそが、この計画をより現実的なものにするのだと。

「承知しております。中野殿のそのお力、ぜひお貸しください」


 井伊の武を象徴する男と、その知恵袋となった男。そして、それを束ねる領主。三人の心は、それぞれの役割を理解し、尊重し合う形で、この瞬間、完全に一つになった。

 直虎は、満足げに頷いた。

「よし。ならば明朝、評定を開く。家臣一同の前で、井伊の新たな船出を、高らかに宣言するぞ!」

 三人は、地図を囲み、互いに視線を交わした。そこには、来るべき困難に共に立ち向かう、一枚岩の覚悟があった。

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